暮らしのまなざし

許せるようになってきた

最近は身体のこともあってか、何だか涙もろくなっている気がする。
去年のマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」のテレビ放送後、昔、彼氏の取ってくれたチケットで母とマイケルを見にドームへ行ったことを思い出し、胸が熱くなった。
私はあの夜、たしかコンサートが終わってそのまま母と後楽園の駅で別れたんだと思う。母のことは依然として憎しみ半分、愛しさ半分の複雑さで、母なんかよりアパートで待っている彼の方が重要で、彼のもとへすぐさま飛んで帰ったように思う。
初めて二人で行ったコンサートだったのに(映画も旅行も何もかもないけれど)今思えば私はあまりに素っ気なかった…。
放送の翌朝、母がたまたま家に手料理を届けにきてくれて、
「昨日のマイケル見た? 二人でドームへ行ったことあったよね。あの時、帰りにもっと一緒にいて御飯でも食べて帰ればよかったのに、一人で帰してほんとにごめんね」
と謝るうちに、感極まって泣いてしまった。
母はすぐにもらい泣きして、私を抱きしめた。
「いいんだよ。お前も辛いだろうけど、がんばれよ、がんばるんだよ」
最後に母はおどけて握りこぶしを作ってみせて、そう言って玄関を出て行った。
母はいつだって、ゴミ置き場で会うときだって、「がんばれよ」と私に言う。

正月に入院した時も母は見舞いにきてくれた。
母の連れ合いが検査で同じ病院に来ていることを夫から聞いていて、でもなかなか現れないのを「来ないなあ」と思っている自分に気づいた時、心待ちにしているんだとわかった。
「そういえばいつでも私が入院したときは見舞いに来てくれたんだよなあ」
それなのに、母が子宮がんで入院したとき、若かった私はたったの1度しか顔を出さなかった。病院の玄関で手を振っていたガウン姿の母をタクシーから振り返って見たのをおぼろげに憶えている。
何となくベッドでしゅんとして天井を見つめていたら、ナースステーションで騒がしく私の名前を言っている母の声がした。
「ああ、迷った迷った、4115と415号を間違えてたから、もうぐるぐるまわっちゃって。この人は勝手に電動(車椅子)でどっか行っちゃうし。朝から整形で検査検査でこの時間だよ、もうやんなっちゃう!」
いつものように病室中に響きわたる大声で品なくしゃべりまくる。顔には大きなブランド物のサングラス、耳たぶにも巨大なイヤリング、頭には母の好きなセシールカットの茶髪の「カツラ」が乗っかっている(ついに面倒で白髪の手入れをやめたらしい)。
聞くと母の連れ合いはどうやら背骨に腫瘍が見つかって、悪性か良性かの検査にまわるらしい。ちょっと前にエレベーターでデイサービスに行く彼に会った時「やけに痩せたな」とは思っていた。悪性となれば、もちろん、ガンであろう。
母はこれからどうするのだろう。母が先に死んで、父親ではない連れ合いが一人残されても私には面倒は見られない。
しかし、母が残れば話は別だ。いや、ほんとに別なのだろうか…。
私を捨てたあの母の面倒を私はついにほんとうに見るのだろうか…。

そんなこともここ数日、頭のどこかにあった。
自分の検査結果いかんでは、母の連れ合いのことを言っていられず、自分の余命云々になるかもしれない。そのことが、あらためて「生命がいちばん大事なんだ」っていうことや入院後の家族の団欒で「この家族があっての私なんだ」ってことをしみじみとわからせた。
毎朝、通勤で朝日の透き通った陽射しのなかを歩いていくたび、大げさでなく「生きてるんだな、今日を」って新鮮に思うし、夕方、公園をちゃんと1時間走ったり歩いたりしてノルマを果たせた後、お風呂に浸かっていて「何だか幸せだよなあ」ってうれしくなる。テレビでタイガーマスク運動が全国に広がって、子供までお年玉から色鉛筆を買って贈っていたなんていうニュースに、じいんとして「よかった、よかった」とぽろぽろ涙がこぼれたりする。いつも以上に感情が鋭敏に、そして素直で善い方に向いているのがわかる。

今なら、ほんとうに何もかもを許せそうなのだ。
母のことも、父のことも、私に酷いことをしたすべての人々のことも、何もかもを…。

今日、夕食の時に夫と話した。母の連れ合いがもしもガンで亡くなった場合は、母の面倒を見るのかどうか…。
「私ね、面倒を見ようと思うんだよね。何だかね、ようやく許せるようになった。昔はあんなに頑に許すもんか、だったのにね。あなたが『俺がお前の傷を治してやる』って意気込んで、『治せるもんか!私は絶対変わらない!』ってけんかしてたのにね。たぶんね、私、いま幸せなんだと思う。あなたのおかげで癒されたんだね」
と言ってほほえんで、おどけて夫に握手を求めた。夫は握手をしながら、
「いいことじゃん」
と言ってくれた。
おそらく夫はこうなることをわかっていたように思う。ただ、私がきちんと自分で選び取れるようにずうっと見守りながら待っていてくれたんだろう。
こんなに穏やかでいいのだろうか、と不安になるときもある。
許すことがこの世の「最後の課題」だとしたら、私はもうできつつある。
実践として、母とどこかへ二人で行って、親孝行めいたものをしたり、やさしく振る舞ったり、許している気持ちを態度や言葉で表すようなことはまだしていないが、何かふとしたきっかけですぐにでもやれそうな気がする。
日々の出来事があって、気持ちの上り下がりはあっても、瑣末なことで、私の心のおおもとはとてもゆるやかにやさしく穏やかなのだ。
偽善者だと思われるだろうが、クリスマスの空撮の件以来「みんな幸せであってくれ」と正直に思えている。あまりカチンともこない。今が貧乏だけれど、働ける口もあって、ありがたく、じゅうぶん幸せだと思える。
何なんだろう。大げさに「まさか死ぬのか」なんてことが頭に過るが、そんなこともあるまい。おみくじが大吉だったから、きっと何もかもうまく行く、だいじょうぶ。
そうそう、今年は笑いながら人にも自分にも「よかった、よかった」と言うのを口癖にしようと思う。
そして、感謝すること、忘れずにいようと思う。
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by zuzumiya | 2011-01-12 22:58 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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