『清冽 詩人茨木のり子の肖像』

a0158124_13114856.jpg詩人、谷川俊太郎氏は生前の茨木のり子さんの詩について、こんな意見を述べていた。

「茨木さんは一貫して自分と向き合い、きちんと書いてきた詩人ですよね。社会とも向き合ってきた。それは彼女の美質だけれども、表現されるものもまた行儀がよくて、パブリックすぎるというか、へたをすると教訓的になってしまう。僕の言い方でいえば、言葉を生み出す源の無意識下がきれいすぎる。そこが物足りない」

その谷川氏が、茨木さんの死後出された詩集『歳月』については、

「一編一編がいいというより、トータルとしていい。一個の人間、一個の女性であることがにじみ出ている。へえ、茨木さんもこんな言葉を使うんだ、という驚きですね。これまで閉ざしていた無意識下の一部をパーソナルとして言語化したという感じがした。でも茨木さんらしくまだまだ控え目で可愛い出し方ではありますけれどもね」
「茨木さん、今度の詩集はとてもいいじゃん、といいたくなりました。でも、それはもうかなわない。そう思うとひどく辛くなりましたね」
                   (『清冽 詩人茨木のり子の肖像』より)

と語って、茨木さんの詩集のなかでは『歳月』を高く評価していたという。

a0158124_1316489.jpg以前、このブログでも茨木のり子さんの詩集『歳月』を紹介した(2010/1/17の記事「茨木のり子さんの『歳月』」)。
茨木さんの詩集のなかでは私は谷川俊太郎氏と同じく、この『歳月』がいちばん好きである。『歳月』は亡くなった夫、Yこと、三浦安信氏との日々を書いた詩集で、茨木さんが「照れるから」という理由で自身の死後の出版ということが約束されていた(一周忌に出版されている)。
茨木さんの生前最後の詩集は、詩集として異例の大ベストセラー、そして茨木のり子の名を世に知らしめることとなった『倚りかからず』だが、まさしく表題作の「倚りかからず」のように、生前の茨木さんは清らかで、凛々しくて、自己に厳しい、男性的な人という堅物なイメージがあった。
『歳月』ではそれがかなりゆるんでいるから、読んでいて実に意外で、
「ああ、茨木さんも普通の平凡な一人の女だったんだなあ、なんと可愛らしい」と思えて、それがまた静かに深く悲しみを連れてきて、しみじみといい詩集だった。
今回、茨木さんの初めての本格評伝ということで、後藤正治著『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を読んだ。もちろん、茨木のり子という「清冽な詩人」の生い立ちから生き様のすべてを知りたかったが、いちばん興味のあったことは『歳月』のもとになった茨木さんと夫安信氏との夫婦の姿だった。
「第七章 Y」に茨木さんの日記がいくつか引用されてある。それがほんとうに素直でいい。もともととぎれとぎれだったらしいが、夫を亡くして一人暮らしとなってからはまったく書かなくなってしまったという。そんなところもまた切ない。
安信氏は勤務医だった。クラシックを聞いたり、映画を見たり、妻の肖像画も油彩で描くほどの芸術を愛した医師で、文芸にも関心があり、茨木さんに本をすすめたり、「櫂」のメンバー(谷川俊太郎、川崎洋、岸田衿子ら)を家に連れてきても大変感じよく、朗らかに応対できる性格の人だったという。だが、結婚12年目の時、くも膜下出血で倒れてなんとか回復してからは、その後は病弱で、やや鬱的にもなっていたという。茨木さんの日記にはこうある。

「朝、0下4度(居間)。水道も凍りついておひるまで出ない。寒波襲来で全国的な寒さの由、私は頭痛烈しく、Yがひやしてくれる。昨日の後かたづけもしてくれる。夕方、吉祥寺に出てコーヒーのみ。ユーストップストアでYのネクタイ(250円)の掘り出しもの、みつけたりする。(後略)」(1959年1月18日)

「Yと吉祥寺へ出る。(中略)溝口健二特集で「雨月物語」と「赤線地帯」。赤線地帯がつまらなかったのと、暖房がなく寒かったので、Y次第にふきげんとなる。雨月物語みずに出てしまう。そうそうに帰ったがYのふきげんつのり、私までみじめになってくる。さんざんの日曜日。早くこういう状態を切り抜けて、Yに昔通りに朗らかになってもらいたいと思う」(1962年2月18日)

「Y、疲れたと病院休み。雨やんだので洗濯もの干す。なかなか乾かないのでへんな異臭あり。今日は私の誕生日。吉祥寺へ出、ミシン屋の下調べ。大阪寿司、きなだんご等買って夕食にする。Y、お祝いの言葉をいってくれる。昨年のことを思うと感無量なり。Yの命びろいしたことを思えば、何も言うことなし。夕方、また雨。Yと二人、傘をさして駅まで散歩」(1962年6月12日)

「ときどき小雨。台風23号の影響か。貰ってきたいちじく、小さな芽を出したので、根づいたのかとうれし。Y、一日、ゆううつそうにして、かわいそうになる。私がよほど明るくしなければならないと思う。夕方、散歩に出る。むさし野の情趣残り、秋めいて、すてきな道を発見した」(1962年10月1日)(以上『清冽』より)

あの「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」と言い放った厳しい茨木さんが、日記では夫の不機嫌や憂鬱そうな姿に右往左往している。ふたりで映画を見たり、コーヒーを飲んだり、散歩したり、やさしくしてくれたお礼にネクタイを見つけてみたり、誕生日には夫のいるささやかな夕餉にただ幸せを噛みしめている。
ここにいるのは清冽の詩人茨木のり子ではなくて、夫の健康を気遣う普通の家庭の主婦、平凡なしあわせを願うひとりの女、三浦のり子だ。それが何とも微笑ましい。この日記が読めたことがいちばんの収穫だったように思う。この日記のなかにあの『歳月』の夫婦の姿がちゃんとあるではないかと思うと、なんだか無性にうれしくなって、胸が温かくなるのである。
生前、安信氏との日々を書いた詩の原稿があることを身内の者は既に知っていたという。それについて茨木さん本人に問うと、
「私が死んだあとで出る予定になっているので…。出版されたら私のイメージは随分と変わるだろうけれども、それは別にいいの。どう読んでもらってもいい。ただ、これについてはどなたの批判も受けたくないのでね」
と答えていた。この「どなたの批判も受けたくない」という強い気持ちがとてもよくわかる。愛するものと過ごした時間を、大切な言葉たちを(長年にわたってかなり推敲の跡もあったようである)「詩人の仕事」として評価されたり、批判されたくない、つまりは汚されたくなかったのだろう。たとえ、その態度が詩人として甘いと言われても、書き逃げになることになっても、生前にはどうしても耳にしたくはなかったんだろうと思う。
愛する唯一無二の夫への言葉だからこそ、三浦のり子がそうさせたのかもしれない。

「人間だから、もちろん表現はしたいわけですが、それを男を通してするっていうことはしたくないなって思っていました。やれ出世せいだの給料足りないだの、女の人って結婚すると、夫のお尻をひっぱたくリモコンみたいになるじゃありませんか。ああいうのはいやだったんです。反面教師はいっぱいいましたからね。結婚しても、自分は自分の世界を持って、それで調和していきたいなっていう気持ちがあったんです。それをまた夫が理解してくれまして、嫌みをいったり抑圧したりするのではなく、育てようとしてくれたんです。エドガー・スノーの『中国の赤い星』っていう本なんか読んだらいいって勧めてくれたりして。だから結婚生活はうまくいきましたね。上等の男性でした(笑)。もう亡くなってしまったから、言ってもいいでしょう」(『清冽』より)

夫を48歳で亡くして、以後30余年を東伏見の自宅で一人で暮らした。
子供がいなかった茨木さんは甥夫婦が三鷹に二世帯住宅を建てて同居を申し出ようとしたが、結局、東伏見の家を出なかった。夫が好きだったクラシックのLPやステレオ装置、ベッドまでもを一切始末せずにそのままに暮らしていたという。
茨木さんが亡くなったのは2006年2月17日。もうじき80歳というところ。夫婦で暮らした東伏見の部屋で、不思議なことに夫のかつて罹ったくも膜下出血と脳動脈瘤の破裂によって亡くなった。
人に迷惑をかけたくない我慢強い人だったから、痛みを堪えてとりあえずは横になろうとしたらしい。発見されたときは、隣に夫安信氏のベッドがある寝室で、一人で掛け布団をかけて寝ていたという。
茨木さんの望んだ、実に茨木さんらしい、静かできれいな終わり方だった。
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by zuzumiya | 2010-12-19 13:16 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
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