3つのフィルター

娘は眠っていて、夢のなかで「これは夢だな」とわかってしまうらしい。そして「夢だから大丈夫」と安心して、意識して夢を見続けることができるという。不思議だ。
私はそんなことはできない。いつでも現実に起こっていることとして捉えて、目が覚めて「あ、夢だったか」と思うだけだ。
でも、そのかわり私にもできることがある。
「ああ、今、なんかいいなあ」と心が動くと「いつかもっと先へ行って、この光景を懐かしくせつなく思い出す時がくるんだろうなあ」と一瞬客観的に思って、目の前のことをよりよく大事に、愛おしんで見ておこうとする。
心のカメラでぱしゃりとその瞬間を撮って、脳のアルバムにせっせと貼っては思い出収集している「思い出カメラマン」みたいなもんだ。
流れていく時間のなかで、将来の貴重な思い出になることをちゃんと意識して、今この瞬間をより愛そうと思えるというのは、なんとなく夢のなかで夢とわかって安心して楽しんでいるのによく似ている。
たぶん、子育て中に「今この瞬間がこの子たちの将来の思い出になるんだ」と、はたと気づいたのがきっかけだろう。それから年をとるにしたがって「いろんなことが変わっていってしまう」と思ったり、ときどきは「いつかみんな死んでいなくなっちゃうんだ」としみじみ感じたりすることがあったから、そうやって、何かいいことの最中にも「これは思い出になるな」と客観的に意識して、ものを惜しんで見る癖がついたんだろうと思う。一度、こういう見方を手に入れると、日常は結構、思い出だらけになる。
頭が「ささやかだけれど、ここをちゃんと憶えておかなくちゃ」と応えてくれる。

たとえば、雨が降らないかぎりは夫婦で毎晩出かけて行く公園のジョギング。
走りながら二人で「迷惑なダイイングメッセージは何か」なんていうとんでもない会話をしたことがある。私がにたにた笑って、
「『金はあそこに移した』はどう?」とはじめると、すかさず夫が
「『あのことは知っている』」
「『あのこと』って何よ、何がバレてんだ?、あれかこれか考えて眠れね〜」
と私が爆笑。さらに夫が、
「『いずれ何らかのかたちで返事する』」
「『何らかのかたち』って何だ〜、すげー気になる。どう来るか不安じゃんか〜」
二人で爆笑する。お腹がよじれて痛くなってくる。さらに私が、
「『これが答えだ』ってのは?」
夫が吹き出して、
「『答えだ』って、死んでるんだから無理難題吹っかけ過ぎだよ〜」
なおも夫が
「『それがどうした』!!」
「『それがどうした』って書かれてもなあああ」とまたもや二人で大爆笑。
こんな会話を横っ腹を押さえて走りながらしているので、腹筋がちぎれそうになる。
でも、ひとしきり笑ってどうにか波がおさまったその後で、「笑いすぎて今日はきついなあ」とちょっと後悔しながらも、頭の片隅で「これが思い出になるんだろうなあ」と思って、次の瞬間、もうしみじみと今この時が懐かしくなっている。

あるいは、また。
休日に夫が用事で外に出かける。忙しく身支度をする夫の気配を感じながら、私はソファに寝っ転がって本を読んでいる。そのうち「行ってきます」と言って、夫が玄関に向かう。「行ってらっしゃい」
玄関のドアがバタンと閉まって、それからしばらく無音で、そして小さくカチリと鍵のかかる音がする。
私はこの「カチリ」の音が好きだ。
なにか大切なものをきちんとしまっておくような、なくならないように鍵をかけて守っているような、そんな気になる。夫にとって自分は、その「大切なもの」になれている気がして、妙にうれしいのだ。
夫の鍵をかけるカチリの音もきっと、私の聴覚は大切な思い出の音として憶えておくだろうと思った。

あるいは、また。
ある日の昼下がり。ソファで私が本を読んでいて、足元で夫がパソコンを叩いている。ひっきりなしに欠伸を繰り返している夫に
「ねえ、そんなに欠伸してるなら寝ればいいじゃん。ここベッドにして一緒に寝る?」
しばらく頑張って画面を見ていた夫が「ああダメだ、もうダメだ」と椅子に反り返ったので、すぐさまソファの背を倒してベッドにした。
二人で毛布にくるまると、夫はすぐに寝入ってしまった。
そのうち、ぐがー、ぐがーと大きな鼾をしだした。呆れて、眠っている横顔をひさびさに間近に見つめてみると、本人が日頃気にしていた口髭は完全にごま塩化している。皺も深くなって、頬の皮膚もたるんでいる。でも、閉じた目の感じが素直すぎて、なんだか無性に「可愛い人だなあ」と思えてきた。
部屋の中はエディーヒギンズのピアノで、しかも楽しげにクリスマスソングなんかが流れている。傍らの夫はそんなことお構いなしに猛獣のような鼾をかいている。
毛布のなかは二人分の体温であったかく、私は好きな本を読んでいる。
「なんだか、今、暢気でいいよなあ」
そう思った瞬間、「このこともきっといつか、ふいに甦って、懐かしく思い出されるんだろうな」と思った。

書いてみればぜんぶ、どうってことない日常の風景だ。それはそうだろう。
でも、なにか私のなかでは切実にきゅうんと胸に迫ってくる力を持っている。
忘れたくない、と強く思ってしまう。
時間は流れて、もう絶対取り戻せない。あの時と何から何まですべてが一緒、などというのはありえない。いつまでもこのまま何も変わらないなんてことはなく、いずれは私か夫かどちらかが先に死んでいなくなる。
そういうことをいちいち考えれば、こんなちっぽけな他愛もないことも、過ぎ去って忘れてしまうのが惜しくなる。

いまも悩みや問題を抱えていて、夫婦ふたりともが暗く考え込んでしまい、不安のあまりぼーっとなることの多い毎日だけれど、死に別れるという今以上の悲しい出来事がこの先に待っているから、それは避けようもないことだから、それに比べたら、今はずっとずっと幸せで恵まれていて、その幸せのさなかを日々生きていられてる、ってことに思いつく。日常のちっぽけなことは、それでもその条件でその想いでその時にみんな揃うのは一度こっきりしかなくて、もう二度と起きなくて、それゆえ取り返しのつかない価値あることで、尊いことなんだ。なのに、がんがん過ぎ去るばかりで、それでも平気で鷹揚に私たちは生きてるってことなんだ。

「死んでしまう」「いなくなってしまう」「なくなってしまう」。
この厳然たる事実だけが、今ある生の時間の本来の価値や輝きをシャキッと気づかせてくれる。この3つのフィルターが、大切なものは何かをちゃんと見せてくれる。流れるばかりの時のその尻尾をぎゅっとつかませてくれる。
大げさかもしれないけれど、そう思って、一度まわりを見渡してみるといいと思う。
真逆の話だけれど、恋したときに世界が素晴らしく色鮮やかに生き生きとして、愛おしくあたたかく見えるもんだけど、あれとちょっと似ていたり、まだ想像しかできないけれど、余命宣告された人が最後にそのことを受容してもう一度あらためて見つめる世界、そういうのともちょっと似ているのかなあ、と思ったりする。
[PR]
by zuzumiya | 2010-11-07 09:50 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://zuzumiya.exblog.jp/tb/11532183
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

今を歌え!
at 2017-11-18 15:32
ペットショップの恐るべきおば..
at 2017-11-05 13:55
不眠症かも…
at 2017-10-28 21:53
謝り癖
at 2017-10-25 22:09
母の孤独、私の孤独
at 2017-10-22 15:11

最新のコメント

検索

ブログジャンル

画像一覧