暮らしのまなざし

いつの間にかこんな風に

最近、時間というものをぼんやり考えています。
私は事情があって幼い頃から母親と離れて暮らしてきました。そのことでずっと母親を恨んできました。自分の欠点はすべて彼女の仕打ちのせい、自分の歪んだ考え方や生き癖ようなものはみな幼い頃受け続けた理不尽な悲しみのせいと思って生きてきました。若い頃はもう、事あるごとに絶対母を許さない、この苦しみを忘れるものかと自分に誓って日々を生きてきたのです。
でも、40代半ばになってふと気がつくと、悩み事や辛い事は相変わらずあっても、昔のように母のことを憎々しく思い出さなくなっています。いったいいつの間に自分がこんな風になったのかと不思議に思います。母を許したのかと自分に問えば、やっぱり彼女のやってきたことは人間として許せません。
ただ、ほんとうにいつからか、徐々になのだろうけれど、私のなかで優先順位が変わっていったのだろうと思うことができます。母の子である私より、子の母である私が心を占めていかざるをえなくなって、そうして、自分の家族がより自分のもの、家族として強まって、私の唯一の居場所として、心のなかに安定していったのだろうと想像できるのです。
若い頃から母への怒りを母の代わりに一身に受けてきてくれた夫の存在。愛憎からまって複雑な私を「悪いところばかりじゃない。いいところだってあるから」と離婚もせず、「一人にしたらいけない」と見放さないでくれました。
母親として全身で頼ってきてくれた子供たちの存在。その瞳は「この子にとって今私はどんな風に映っているんだろう」とふいに冷静にさせて、私を母親というものに引き戻してくれました。幼い頃をもう一度生き直す経験をくれて、祖父母に愛されていた日々を輝かしく思い出させてくれました。
そんなことをつらつら考えてみると、今、しみじみと「誰かとともに生きる」を選んだことがすべてだったと思います。ただ長い時間の経過だけではなかったなあと思うのです。

若い頃、連れ立って歩く夫婦を見て、自分の旦那さんが禿げていくのを奥さんはどう感じているんだろう、なんて不思議に思っていました。
ふとした瞬間、夫の頬や喉のたるみが目立って、若い頃よりひとまわり小さく縮んで、男としてはだいぶ情けなくなってしまったなあとしみじみ思うけれど、なんだかそれだからって別に嫌じゃないんです。不思議なことに自分も老いてきたからという観点ではなく、「ああ、一人の男が生きて、家族のために生活して、自分を費やしてきたのだなあ」と感じて、なんだか無性にそんな姿が愛おしくなってしまいます。
たまに夫と模様替えや本棚の大整理をします。「自分のものだけだったら、絶対きれいなお洒落な部屋に住めるのに」といまだに一瞬カチンとくるけれど、すぐに「これが一緒に暮らすってことだったよなあ。こうやってごちゃまぜになって、埃をかぶって一緒に暮らしてきたんだよなあ」とあたたかい気持ちが込み上げてきます。
知らないうちに戸棚に私の好きなお菓子が入ってる。
スーパーの袋からぽろりと歯ブラシが落ちて、「取り替え時だろ」と夫の声がする。
夫の「珈琲にチョコレート」がいつの間にか私の習慣になってしまった。
たまに一人で外出しても、子供のものを買って帰ってしまう。
家族のなかの誰かが嫌いな食材は食卓にあがらない。
天気がいいと、まず蒲団を干したくなる。
愛なんてものは、ほんとうに大げさなものじゃないんですね。
言葉にするとなんてことはなさすぎて、あまりに自然だから、みんなすうっと読み飛ばしてしまうんでしょう。
そういえば、写真家のアラーキーさんの亡くなった奥様の陽子さんがこんなことを書いています。

「あー夫婦だなあ、とシミジミと感じてしまう時がある。どんな時かというと、それは夫のすぐ後に自宅のトイレに入った時である。トイレの中にはモヤモヤーンとした夫のウンコさんの臭いが漂い、便器に腰をかけると、便座カバーには夫の体温の温もりが残っている。しかし私はそんな事が一切気にならない。それどころか、その臭いに一種のナツカシサを感じてしまうほどである。何年も一緒に棲み、全てといっていいほど曝け出して暮らしている夫婦の、当然のナリユキ感覚なのかもしれない。これがもし、ボーイフレンドだったりしたら、こうはいかない。(面白いけれど後は略)」
                       『愛情生活』荒木陽子より

なんとも微笑ましい文章で、私はここがほんとに好きで憶えていました。
若い頃には愛ってものがこんなささやかさで普通に繰り返されるものだとは、わからなかった。私と同じ40代のみなさんもそうじゃなかったですか?
でも、こんな肌寒い静かな曇りの日に一人で外を見てると思うんです。
ああ、人はこんなふうに年をとっていくんだなあ、って。
そして、こんなふうにゆっくりと思えていくものなんだなあ、ってうれしくなるんです。
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by zuzumiya | 2010-10-10 11:17 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(4)
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Commented by 悠里 at 2010-10-11 07:24 x
こんにちは。素敵なお話で心がほっこりと温もりを感じました。
生涯の伴侶との積み重ねる歳月はよりお互いの関係を深めていくんですね。
私も来年40歳になるのに、この差はなんだろうと自分自身を振り返って愕然としてしまいます。愛のある人や関係にあこがれますが、長い関係を続けてこそとなると、飽きっぽい私には到底、愛まで到達できる訳も無くて、なんていうのか、実感として愛は理解できないものではあります。
単純にそういう関係になれる人を尊敬します。うらやましいなあ。
乱文失礼しました。
Commented by zuzumiya at 2010-10-11 09:59
こんにちは。あれ? 悠里さん、もひとつ前の「彼女の〜」に引っ掛かってのコメントではなかったのですか(笑)。
いつも感想を書いてくださってありがとうございます。
私には父がいないので、悠里さんとお父様の関係をいいなあと思っていましたよ。きっとみんな自分のことだからよく気づけないだけで、夫婦とか自分の作った家族じゃなくても、親子でいても(もしかしたら友達同士なんかでも)同じように日々の暮らしから「ある想い」に到達できるんじゃないかなあと思ったりします。
根拠がないんですけど、みんな出会う時とか手段とかそれぞれだけれど、いつかは同じことをわかって死んでいくんじゃないかなと思ってるんです。ほんとに確信に近いかたちで思ってる。だから、羨ましいなんて思わなくていいと思うなあ。
「いい日だなあ」とか「のんびりしてるなあ」とか思って、ちょっと自分のまわりを見てみると、いつもの部屋にいつもの顔して夫や家族がいたりする。そんなちょっとのことなんですよね、幸せって。
お父様との日々を大切に。って、いつもと変わらずにいつものように過ごすってことですが(笑)。ありがとうございました。
Commented by 悠里 at 2010-10-11 10:28 x
それでは「彼女の~」の記事にも感想を書かせていただきます(笑)
私の父とのことは愛情ではないんですよね。もっとお互いに実用的にくっついているだけのような気がして仕方がありません。
「ある想い」に到達したいです。それを死ぬ間際にでも分かれば本当に死に日々近づくことも喜びになるかもしれません。
人との交わりの中に幸せを見つけられるようになれればいいなと日々を大切にします。ありがとうございました。
Commented by zuzumiya at 2010-10-11 16:48
この日々のなかにきっと大事なことはみんなある、んでしょうね。
私も人との交わりのなかに幸せを見つけられるように生きたいです。
よい言葉をありがとう。

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
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