久世光彦『飲食男女』の世界2

a0158124_179294.jpg死んで欲しくなかった男の筆頭に久世光彦がいる。そして、これから死んで欲しくない男の筆頭に浅丘ルリ子の「魔性」を撮った鶴橋康夫がいる。
私のなかのデカダンの美は、この二人の昭和の演出家に育てられたと言っていい。
先日、夫に久世を読ませたら、「文章が好きだっていうけど、実は、久世の感覚とか感性が好きってことじゃないの」と指摘された。そしたら、ハッとして「そうか!」と目からウロコが落ちた気がした。
そうなのだ。私はたぶん、久世の文章のなかに映像を見て、彼の演出を見ているのだ。
そして、その演出を施された世界がもの凄く好きなのだ。

二階の女

 昭和五十年代のそのころは、いまのように手ごろなマンションというものがなく、女一人があまり大っぴらではなく棲むところと言えば、商店街の外れの通りから、露地風の細い道を入った奧の、モルタル二階建てのアパートと相場が決まっていた。その町も、都内なら駒込とか、高円寺とか、私鉄の沿線で言えば、奥沢や洗足池辺りが、いかにもそうした女の棲家には似合っていた。店屋はそう遠くないし、物価は都心に比べてかなり安い。だから、女はさほど不便を訴えない。一方、通う男にしてみれば、そうした町はさして特徴や風情がない代り、任意の町とでもいうのだろうか、容易に辺りの風景に紛れ込んでしまえる安心感があった。つまり、自分が架空の町の、虚構の人物になることができそうな気がするのだ。
 アパートの周辺は、ほとんどが静かな仕舞屋である。露地へ入る角が婦人科の個人病院で、その向いは貸し本屋、女のアパートまでの三十メートルばかりの道は、舗装がしてなくて、雨の午後には婦人科から出てきた赤い傘の若い女が、足元を縺れさせて、水溜まりで足を濡らしてた。-----これはこれで、忘れがたい風情だった。
 ぼくは二階にこだわった。細い露地を見通せる窓が、二階のその部屋にあることにもこだわった。それに-----商店街からあまり距離があってもいけない。ぼくは二階の窓から見送られたいのである。背中に女の視線を感じながら歩いて、程よいところで、程よい角度で振り返りたいのである。その気持ちを説明しろと言われると、ちょっと困る。
-----もちろん時間は夜である。たとえば、程々の雨が降ってる。傘のないぼくは、小走りにやってきて振り返る。女の窓の灯りが濃い藍色の夜に滲む中に、女の影が揺れて見えるのは、女が胸の前で小さく手を振っているからだろう。ぼくはほとんどこの数秒のために、二階の窓にこだわった。
 男と女の間の切なさや、情けなさは、そんなところにある。泣いたり、喚いたりしたことは、三年もすればお互い忘れてしまう。いつまで経っても、苦く、甘く憶えているのは、二階の窓を振り返ったとき、目に沁みた秋の雨滴の痛さだとか、女の白い顔の上で風に吹かれていた、洗濯したハンカチの水色だとか-----とるに足りないものばかりなのだ。
けれどそのころは、いま思い出すために、そうしていたわけではなかった。うまく言えないが、そうでもしなければ、今日が明日にうまく繋がらないように思っていたのだ。ぼくは四十そこそこで、疲れていた。誰かに激しく囁きつづけていないと、不安でならなかった。身勝手な話だが、そういう意味で、桜子は、いてくれなくてはいけない女だった。
                   (久世光彦著『飲食男女』より「二階の女」)

この「二階の女」は大好きな『飲食男女』という本に入ってる。エッセイの体裁をとりながらまったくのフィクションでもありそうな、あわいの世界をいつでも久世は上手にたゆたう。こういう昭和のデカダンや哀愁やエロスがたまらなく好きで、向田邦子シリーズや寺内貫太郎なんかの実際のテレビの久世ワールドよりも(放送コードがないだけに)ずいぶん影響を受けた。
もうアパートの立地条件の云々から、雨の日に婦人科から出てくる女の傘が赤いところ、傘のない男が小走りで途中振り返るところ、女の白い顔の上で風に吹かれていた洗濯したハンカチが水色のところなど、もう絶対そうでなければならなくて、このどのひとつも欠けてはならなくて、違っていてはならなくて、神は細部に宿るというが、このこだわりの重なりこそが久世ワールドなんだと言える。馬鹿みたいだが、これを読んで、女には絶対赤い傘が必要だと思って、赤い傘を買い求めたことがあった。

先日、『オリオン座への招待状』という映画をたまたまテレビでやっていたので見た。
監督も脚本家も忘れたが、そのなかになかなか粋な演出があって、印象に残った。

宇崎竜堂演じる映画館の無骨で朴直なおやっさんが、夕暮れ時の縁側で、くわえ煙草ですいっすいっと鰹節を削っている。

こういうシーンはストーリーとは直接関係ないから重要じゃないかといえば、そうじゃない。おやっさんの人間的なあったかみを出すために、夫婦の絆を出すために、台詞で言わせてはベタでクサくなりがちなところを姿だけでさりげなく見せているのである。
とかなんとか言うより、ひとえに沁みるいいシーンじゃないか。
話は逸れるが、このシーンで、うちのおばあちゃんが、やっぱり夕方、大工だったおじいちゃんの鉋を裏返して、毎日鰹節を削っていたことを思い出した。小さくなってもう削れなくなった3センチばかりの鏃のように尖った鰹節を祖母から貰って、しゃぶっていたことも同時に思い出した。
たしか作家の重松清が「人の記憶をいかに引き出すか、いかに刺激を与えるかも小説の力のひとつ」と言っていたが、文章でも映像でも優れたシーンはなるほど人の記憶にじんわり作用するものなんだな。

久世の文章でもオリオン座でも、こういういいシーンに巡り会うと、もの凄くうれしいのと同時にもの凄く落ちこむ。きっと私の分は、わかる、感じる止まりなんだと思う。
作品のいいところは身が震えるほどに強烈にわかっても、そういう作品を自分では生み出せない。私が映画「アマデウス」に惹かれるのは、あのなかのサリエリの哀しみがよくわかるからだ。「好きこそものの上手なれ」という言葉があるが、実際は「好きこそもののあはれなれ」なのだと思う。


※久世さんの『飲食男女』はほんとに大好きな本なので、つい世界観をわかってもらおうと何度も長く引用してしまいます。隅から隅まで凝りに凝った久世ワールドなんです。
最近、新聞で俳優の竹中直人さんが漱石の『行人』を久世さんと映画にする約束だったというコメントが載っていて、見たかったなあと思いました。私は久世さんに向田作品ばかりでなく、作家や詩人や画家の伝記物をもっと2時間枠のドラマにしてほしかったです。いつでもドラマや映画を見るたびに、久世さんだったらどう演るか、頭のどこかで考えています。鶴橋さんが生きていて下さっているので、まだうれしいですけど。
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by zuzumiya | 2010-09-25 17:09 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
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