暮らしのまなざし

家族がいる人は強い?!

独身の友人がしきりに「家族がいる人は強い」という。
守るべきものがあるとか、守られてるとか、堂々と家族優先で排他的に振る舞えちゃうとことか、いろんな意味でそう言っているのはよくわかるんだけれど。
私にも家族があるから、こんな私でも「強い」ということになる。
ええ? そうなのかな? どこからそう思えるんだろう。不思議だな。

私の「○○してあげたい」という気持ちの発端は、やっぱり自分の家族との暮らしの中から生まれてきたものだと思う。
若い頃は自分が7で他人が3ぐらいの比重で生きてて、家族を持ってる今はいつの間にか自分が3の時だってあって、それでもいいやって生きてて。そういうことが許せるというか、あって逆にうれしいとか幸せな時もある。凄い転換なはずなのに。

自分ではない誰かのためにこんなにも動きたくなる自分、褒めてもらったり好かれたりするのはうれしいけど期待もしちゃうけど、それだけで動いていない自分、めんどくさい事もつまらない事も誰かにとって必要だというなら辛抱できる自分、若い頃や独身の頃には生まれてもなかなか根付かなかったそういういろんな自分がどうにか育って、しかも、そういう自分がへこたれなくなったというか、「そういうものだな」とか「そうしなきゃ進まないよね」というふうにシンプルに物事を受けとれて、足腰を鍛えるみたいに地道にせっせと自分をやってこれたことは、何より身近な家族のおかげだと思う。

自分自身ではなく、いちばん側にいた家族が、そういういろんな自分を引き出してくれたんだろうし、一緒に生きることで知らず知らずに日々鍛えてもくれたんだろう。ずっと一人でいたら、3になる喜びは知らなかったかもしれないし、自分を0にするぐらい難しいことと思い込んだままだったかもしれない。

自分ではない誰かのために何かをして、喜んでもらってそれで自分がうれしいなんて、究極の善性だと思う。こういう凄いことを宗教の教えとかじゃなく、「洗濯物出しときなさいよ」とか「歯磨き粉買っといたからね」ってのがぽんぽん飛び交う日々の普通の暮らしのなかで自然と意識もしないで互いにやってのけているところが家族の凄いところなんだろう。

それから、この家族の誰かが急に死んでいなくなってしまったら、がっくりきて、生きていくべき明日など見えなくなって、命があるから生きているはずなのに、その命すら死んだ誰かに会いに行くために捧げたくなる、ないがしろにしたくなる、そんな気持ちを心から作ってしまえるんだろうな、とも想像する。

そういう人間の持つ善さや凄さや深みが、普通の人にも、難しい本をいっぱい読まなくても、偉い学者先生の話を聞かなくても、学歴や特別な才能なんてなくても、家族とともにああだこうだ言って暮らすってだけで、時間はかかってもちゃんとぜんぶ気づいていけるように人生はできてるんだな、というのが喜ばしい。最終的にはどんなに長く生きても、この家族のなかで生きてきた歴史の中から得たエッセンスみたいなものだけを持って、死んでいくんだろうなあ、と思う。

そういうこと、つらつら考えてはみるけれど、家族がいてくれてよかったことにはなっても、それが自分の「強さ」につながっているのか、どうもよくわからん。
それよか「今日は薄ら寒いからおでんにでもしてやるか」って決めて、買い物行って、ビール買ってジュース買って、もうそれだけでにんまりできるのが、案外強さなんじゃないかと、ふと思ったりして。
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by zuzumiya | 2010-09-24 15:58 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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