暮らしのまなざし

夏の日の記憶

おじいちゃんの一周忌だった。
東京の外れから車を飛ばして、富士山麓の大きな霊園まで行った。
梅雨の晴れ間の、ものすごく暑い日だった。
いつものように、線香の束に火がつかないだの、消せないだのと全員で慌てていると、
いつものように、坊さんが風のように現れた。
えのきのような、ひょろりと背の高い坊さんだった。
南無阿弥陀仏を唱えだすと、何を想っているのか、何も想っていないのか、隣で夫と母と娘が俯いて目をつむり、神妙に手を合わせていた。
時折、遠くで雷のように、自衛隊の大砲の音がした。
入道雲が雄々しく立ち上がり、どこかで鳥が鳴いて、山の緑は青々と深かった。
よいところだと、あらためて思った。
坊さんがお鈴を鳴らすたび、あたりの空気はさらに澄んで、静かさが増した気がした。
目をつむってみた。
そこは、鶴間の家の居間だった。
薄暗い部屋のなか、小学生の私は座布団を枕に床に寝そべって、扇風機の風を浴びている。夏特有の、部屋の中はあくまで暗く、外は白く飛んだように眩しいコントラストの強い風景だ。庭先で作業ズボンをはいたおじいちゃんが、いつものように上を向いてはしごを掛けている。
葡萄棚の葉が揺れて、木漏れ日がきれい。生け垣のサワラの緑もあのままだ。
庇で育てている「どじょういんげん」は私の好物だったから、おじいちゃんは夕飯用にひとつかみ取りに登ろうとしてくれているのだろう。
おばあちゃんの姿はないが、台所で昼の素麺の洗い物でもしているような安心がある。
明けても暮れても、柿の木に蝉ばかりが鳴く、いつもの退屈な夏休みの昼下がりだった。
目をあけた。
オレンジにぼやけて墓石が見えた。
泣いていた。
あの頃、あの夏の日々のなかで、こんな日がくることを想像だにしなかった。
老人の家で育てられ、休みといってもどこにも連れて行ってもらえないことを、ただつまらないやと思っていた。
あの夏の日の退屈は、何もかも失う前の、無知で幼稚で傲慢な、蜜のように幸福な、退屈なのだった。
ふと、私が死んだら、また3人であの夏の日から始まるような、そんな気がした。
今いる世界など、あの夏の日の昼寝に見た夢で、夢から覚めれば、蜩の鳴く夕方で、ステテコ姿のおじいちゃんがいつものように「すいか、喰うか、かずみ」と誘ってくるような気がした。それで、いいと思った。
隣にいる夫と母と娘を置いて、ゆっくりと手を振り、じきに誰が誰だかわからなくなって、私は娘より幼いあの日の小学生に戻って、懐かしい鶴間の家に帰っていこう、と思った。
ふたりに死なれて、ひとりになった私には、幼い日々のあれこれを一緒に笑って話せるような相手がいない。それが、老人に育てられた子供の宿命なのだろうが、ときどき、どうしてだかこんなにもつらくなる。
死んでいくのなら、私の頭のなかのあの夏の日の映像ごと、持ち去ってくれればよかったのに、と思う。
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by zuzumiya | 2010-09-23 13:20 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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