何もできないことへのさみしさ

昔の文章を読み直していて、こんなのを見つけた。

**********

庄野潤三の「『旅愁』の作者」という随筆に、阪田寛夫が小説に書いた唱歌の作詞家、犬童球渓の話がある。阪田さんが小説取材の際に、犬童さんの娘さんに
「お父さんが家におんなされば、さみしかな」
とぽつりと言われたと書かれていて、庄野さんはこう書いている。

「お父さんが家にいらっしゃる。いらっしゃることはいらっしゃるが、そのお父さんのまわりにはさびしい空気がたちこめていて、そばへ近寄れない。そういうお父さんであったらしい。この「さみしかな」というお嬢さんのひとことに、私は感銘を受けた。」

これを読んだときに、私も同じ気持ちになった。そして自分の娘のことを思った。
「さみしかった」と彼女も言ったことがあった。
それは単にそのときの彼女自身の心情のことだったが、その言葉のさらに奥に、この犬童の父のように、親の私がさみしさを纏って机の前に居たのだとしたら、そしてその光景は、子どもとしてなす術のないことで、それが彼女の「さみしさの土壌」になったのだとしたら、娘の脆さのすべてはそこから始まったではないか、と考えずにはいられなくなった。
人がより苦しむのは、何かをしてもらいたいためのさみしさでなく、何もできないことへのさみしさ、だろうか。

人はどうしようもないさみしさを抱えている。
最も皮肉で哀しいのは、いちばん身近で大切で愛している家族にもそれは癒しようもない救いがたいことであり、持って生まれたさみしさというか、その人の生にしか感じられない、実に個人的なものだということだ。
芸術家というのは、そのさみしさを感じる心が強いゆえに自殺してしまっても不思議でないと思っている。性懲りもなく希望を持ってしまうのが人だとしても、癒してもらうことも癒してやることも実はできないとわかっている。そして、生きているかぎりは何度も味わわなくてはならないし、ごまかすたびに疲れていくものともわかっているのだ。

**********

今、読み直しても、そうだなあと思う。

「ひとりぼっちだとどうしていいか
 わからないしいっぱい不安はある。
 それを乗り切るための希望をさ
 なんとかして自分で作りだそうって」

そうつぶやいた人の、
この言葉がずうっと頭の片隅にある。
家にいても、仕事していても、いつでも、ぼんやり考えてる。

ひとりぼっち、か。
ひとりぼっちだなんて、そんなこと。
家族がいたって、恋人がいたって、どうにもならないものなんじゃないのか、初めから。
嫌というほどそんなこと、わかってるはずじゃないのか。
不安だって、そう。
そんなこと言ったら、もうずうっと不安なままだ。
不安なんてなくなりはしない、死ぬまで続く。
ほんとにそれを乗り切るために、自分で、バカみたいに毎日、
「こうなんじゃないか」「こうかも」って考えながら、
希望を探して、小さな幸せを見つけて、
なるべく悪く考えないようにして、いいことを伝えようとして、
情けないけど、恰好わるいけれど、
でも、せっせとそうやって頑張って生きているつもりなのに。

なのに今さら、なんで、そんなこと言うのだろう、君は。
[PR]
by zuzumiya | 2010-09-15 00:01 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://zuzumiya.exblog.jp/tb/11281855
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?


by zuzumiya

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

今を歌え!
at 2017-11-18 15:32
ペットショップの恐るべきおば..
at 2017-11-05 13:55
不眠症かも…
at 2017-10-28 21:53
謝り癖
at 2017-10-25 22:09
母の孤独、私の孤独
at 2017-10-22 15:11

最新のコメント

検索

ブログジャンル

画像一覧