暮らしのまなざし

高島野十郎の写実

a0158124_11283124.jpg高島野十郎の絵を知ったのは、久世光彦さんのエッセイ『怖い絵』の中だった。

「ここに一枚の蝋燭の絵がある。粗削りの木製のテーブルの上に小さな土器(かわらけ)の皿が置かれ、それを受け皿に残り4、5センチになった蝋燭が長い炎を上げて燃えている。ごく普通の西洋蝋燭である。描かれているのはそれと周囲の薄闇だけで、ほかには何も描いていない。横16センチ、縦23センチの小さな油彩画である。たいへん細密な描写で、芯がジジジと燃える音が聞こえるような気がする。描いたのは昭和50年に85歳で死んだ高島野十郎という画家だが、ほとんど誰も知らない。誰にも知られず、蝋燭の絵ばかり描いて死んだ。」
「昭和63年、夏の盛りに目黒の美術館で開かれた回顧展では、小さな一部屋に蝋燭ばかり十数点が展示されていたが、ほかに何の照明もないのに、その部屋は夕暮れの西日の窓のように薄赤く燃えていた。互いの炎で照らし合い、一つの炎のほの揺れが末期の呼吸ほどの風を起こして次へ伝わり、蝋燭たちはざわざわと音をたてて燃えさかっていた。」
                         (「蝋燭劇場」『怖い絵』より)

久世さんの文章の傍らには野十郎の蝋燭の絵がカラープリントされて付いていた。
たしかに細密な写実画である。じっと見つめていると、ふいに誘うように怪しく揺らめいて、そのうち炎の先を縒るように空気を貪ってほうほうと上へ燃えさかっていく感じがする。なおも見つめていると催眠効果でもあるのか、次第に吸い込まれるようにこころが無になっていく。たしかに蝋燭の炎を見つめていたはずが、いつのまにかただ辺りはぼうと均一な赤い光に包まれてしまう。

高島野十郎は変わった画家だった。
「全宇宙を一握する、是写実 全宇宙を一口に飲む、是写実」という信念のもと、生涯を写実に徹し、画壇や評論家とは距離を置いた。個展だけを発表の場にし、親しくつきあう友人も少なく、生涯独身を貫き、70を過ぎてからは千葉の柏に電気も水道もない粗末なアトリエを建て「晴耕雨描」の生活を送った。若い頃から蝋燭の絵を描いては、人々に「絵馬のように奉納する」だの、「不要なら焚き付けにつかってくれ」だの言って挨拶代わりに手渡していたという。
兄の宇朗は詩人であり、のちに禅宗の僧になった。その兄の影響もあってか、神仏習合の人で、創作ノートには
「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」
「花一つを、砂一粒を、人間と同物に見る事、神と見る事」
「写実の極致、やるせない人間の息づきーそれを慈悲といふ」
など、自らの写実の真として、いくつも言葉を書き残している。

a0158124_11293519.jpg私はもともと久世さんが教えてくれた野十郎の「蝋燭」に興味があって図書館から画集を借りたのだが、開いてみると、まず目に飛び込んできたのは月の絵だった。
柏へ移ってからの野十郎晩年の絵らしいが、5枚ほど同じような月ばかりが続いている。わずかに暗緑色の混じる黒みがかった藍色の空に、真ん中よりやや上方に薄黄色の月がかかっている。月傘が静かに丸く辺りを薄く輝かせている。ただそれだけの絵である。絵によっては下に薄く筋のように夜の雲が描かれていたり、上下に葉影が描かれていたりするが、メインは月と闇それだけである。
しかし、私はこの月の絵に見入ってしまった。

いつだったか、ふと見上げた夜空にきれいな月がかかっていて、こちらの心に余裕もあって、なんとかあの月を残しておきたいと思うあまり、そそくさとデジカメをとってきて、夜空に向かってシャッターを切ったことがある。
ところがうまく撮れなかった。月は小さく白い点になるか、十字にまばゆく光ってしまい、花火の燃えかすか、宇宙人の円盤かと目を凝らしたくなるような情けない写真になった。高感度で素晴らしいレンズなら、じゅうぶん月らしい月が撮れるのかもしれないが、たとえ撮れたとしても、科学雑誌の月のようなものなら、私はいらない。欲しいのはあくまで己の月傘にぼんやり包まれた幽玄の趣あるたおやかな月だ。

野十郎の画集を開いて、はじめて夜空にかかる本物の月を手に入れたと思った。
しかし、野十郎は月を描いたのではないという。闇を描くために月を描いにすぎないのだというのだ。これが彼の「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」、すなわち「あるのではなく、またないのでもない」という存在の妙なのかと思った。
彼のその言葉を借りて、あらゆる絵を今ひとたび眺めれば、たちまちこの野十郎という画家が何を写実として見ようと欲し、見んがためにひとり身をやつしてきたかがわかる気がした。「蝋燭」もそう、「睡蓮」もそう、「古池」も「渓流」も「春の海」も「林径秋色」も、一連の静物画や花瓶に差された花々の絵も皆、そうだった。
自然を描ききることで超自然を宿す、醸す。神の領域に手を掛け、その慈悲に触れようとする写実の試練。

「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」

見ることだけをひたすら欲し、突き詰めて集中していくと、此処ではない何処かまで視神経の触手が伸びて魂は拡散し、描いているのに離脱してしまってるような、この世とあの世の両側から張りつめて見つめているような、そんな静かにざわついた気配の漂う絵が描けるのだろうか。
揺れる蝋燭もそうだった。蝋燭を描いていながら、見る者はいったん蝋燭の炎に釘付けになるが、やがては突き抜けてまどろみながら、包まれた明るい闇のおぼろを見ている。
月もまた然り。煌々たる月を見つめていて、次第に四方から闇がさわさわとかすかに蠢いていて何やら月を静かに押し動かしている気配を感じる。
桃一つとっても、友禅菊の鉢一つとっても、見つめていると縁の縁にただならぬ気配が潜んでいる。だが、空気は止まっている。見つめるたびにそちら側からも何かかが息をひそめて見つめ返していることの強ばりを感じる。見るを突き詰めると見られるに反転するのかもしれない。その曖昧さ、境のなさ、不可思議な複眼性が野十郎の緻密な写実を通して絵にはある。
久世さんがいちはやく紹介し、川上弘美さんが装丁に使い、展覧会も開かれ、新たに画集が出版されるなど、ほとんど無名だった高島野十郎はいまや注目されつつある。たしか、NHKの美術番組にも取り上げられたはすだ。多くの人が野十郎の極めた写実の妙に触れることができる時代がようやく来た。
[PR]



by zuzumiya | 2010-09-04 11:30 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://zuzumiya.exblog.jp/tb/11230389
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。

ふだんの暮らしに息づいているたいせつなもの、見つめてみませんか?
by zuzumiya
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

※このブログの無断な転載はご遠慮願います。

最新の記事

最新のコメント

検索

ブログジャンル

画像一覧