天寿をまっとうした画家、小倉遊亀

a0158124_2052661.jpg図書館で画集を借りてくるのが好きである。もちろん、美術館にも行くけれど混雑しているときはたまらない。人の頭ごし、体ごしに絵を見るなんて、それから、押し寄せてくる人のために絵の正面をすぐに譲らなくてはならないなんて、落ち着かない。
絵とは恋人とのようにゆっくり二人きりになりたいではないか。美術館だと水入らずにはなれないので、図書館から画集を借りてきて見つめ合い、うっとりとする。
大好きな音楽をかけながらのときもあるし、日当たりのいいリビングの床に寝っ転がってのときもある。こちらが「いいなあ」なんて色目をつかうと、絵の方もぐんぐんよくなって私に囁き出すから、ほんとに幸福なひとときである。絵は美術館の白壁に嵌めておくよりも、こうやって暮らしの中にある方がたくさんのことを語りかけてくれるようである。

前まえから名前が気になっていた。遊ぶ亀とは、なんて楽しいシャレた名前だろうと思っていた。小倉遊亀さん。まさか女の人とは知らなくて、しかも103歳まで絵筆を持っておられたすごいおばあちゃまだとは知らなかった。日本画家というのは恥ずかしいことに、教科書に載っていた俵屋宗達かカレンダーの東山魁偉ぐらいしか知らない。私の中の日本画のイメージが桜や竹林や山などの大きな風景ばかりで、精細で荘厳で風雅であるけれど、何か今ひとつこちらを沸き立たせるものがなく、踏み込むことをためらうような距離のある静寂な美しさ、というようなものだった。

私は絵でも、写真でも人物が好きである。人間に内包されているものをどう滲み出させるかの作り手の努力が面白い。今回借りてきた小倉遊亀さんの画集には人物も静物画のような小さき風景も両方あってくれる。
遊亀さんの人物画には、二つのタッチがあるようだ。ひとつは線が細く、着物の柄の細部まできっちりと精密に描き込まれた、それでいて輪郭から仄かに体温を発しているような、匂い立つような佇まいのある繊細なタッチ。もうひとつは反対にはっきりと主張のある洋画的な色調で、力強い存在感といのちの躍動感のあるタッチ。私はその両方ともが好き。特に前者の方では「浴女その一」(1938年)や「夏の客」(1942年)。後者の方では息子さん夫婦を描いた力強い「家族達」(1958、59年)や越路吹雪さんがモデルの「越ちゃんの休日」(1960年)が好きだ。

「浴女その一」のタイルの浴槽に満たされたうすみどり色の湯の揺らぎには、何度見てもくらくらとしてしまう。お風呂の絵はボナールもそうだが、なぜか惹かれる。「夏の客」の二作にはそれぞれ着物の女性の肩の辺り、襟足の辺りに涼やかな微風を感じる。「浴女その一」も「夏の客」も人物に対して空間が広いのでこんなにも大きく息がつけて、清らかなのだと思う。反対に正面から堂々と若々しい肉体美が迫ってくるのが「家族達」であり、「越ちゃんの休日」のポーズや赤にマティスの「赤いキュロットのオダリスク」を思い出すのは私だけではないだろう。
遊亀さんの描く着物姿の女性は温かみと共に凛とした魂の静けさがあっていいが、こどもはまた純真無垢で愛らしいのである。洋画家岡本半三氏の娘さんを描いた「姉妹」(1970年)の妹さんのニッとした表情、折り紙を抱え込む仕草は目に焼き付いて離れないし、大好きな「径」(1966年)の黄色い傘を高くあげた、犬の鼻先で背中が押され気味の女の子の愛らしさ、健やかさ、幸福感といったらない。

遊亀さんは実生活では病身の母親を養いつつ絵を描くという苦労をされていたが、その反面、人生の要所要所ですばらしい師に恵まれた方でもあった。25歳の時に入門した安田靫彦氏は遊亀さんに一枚の葉っぱを描ききればやがては宇宙全体が手に入ることを教えた。このときの「宇宙」という言葉はのちに遊亀さんが仏の道に傾倒していく兆しだったように思う。やがて禅徒である小倉鐵樹氏と巡り会い、30の年の差で結婚し、仏の教えを請い、精神修養しつつ絵に励んでいった。そうして得たものが「物みな仏でないものはない」「私の絵の仕事は即、私の求道精進と一つのものである」という心境である。生き様がそのまま芸術となる見本のような、まったく潔い人だった。

最近、たまたま読んだ芭蕉の言葉に、遊亀さんのこの言葉と相通じるものがあるような気がした。
「古しへより風雅に情ある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をいため、破笠に霜露をいとふて、をのれが心をせめて、物の実をしる事をよろこべり。」

芭蕉も厳しい旅をしつつ俳諧を極めた人だったから、やはり日々刻々の精神修行の中に芸があった人だった。「をのれが心をせめて、物の実をしる事」を「よろこべり」と言い切れるすごさ、幸福。どんなにか苦しくてどんなにか幸せだったろうと思う。私が遊亀さんにも芭蕉にも羨ましいほどの幸福を感じるのは、生きていくことがたった一つに収斂していくからだと思う。その人生の単純な力強さに私は熱くなる。「仕事に生き甲斐を」なんて言ってる人の寂しさよ。生き甲斐はそもそも一つである。自分がより高き自分に近づこうと生きていくこと、そのこと一つではないか。

遊亀さんが描くもう一つの世界、暮らしの中の小さきものたち、たとえば、胡瓜や茄子や葡萄や草花にも、たしかに女性や子供や菩薩と同じいのちの温みが流れている。「物みな仏でないものはない」の絵である。
82歳という高齢で縦2メートルもの「雪」(武原はんさんがモデル)を描くバイタリティーを持ち、103歳、椀に差された紅梅の小枝を描ききって、105歳で亡くなられた。
「天寿をまっとうした」という言葉は彼女にこそふさわしい。


*『現代の日本画 小倉遊亀』学研
*『日本古典文学全集 松尾芭蕉集』小学館
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by zuzumiya | 2010-09-02 20:07 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
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