時間
先日、こんなことがあった。昼間、ひとり静かに仕事をしていると突然けたたましい音がしてどこかの家の目覚まし時計が鳴った。すぐに音は止められたが、時計を見ると10時。こんな時間に起きる人がいるんだ、と笑ってしまった。私の一日は6時50分からすでに始まっていて、目覚まし時計の人の一日はたった今、10時から始まるのだなと思うと不思議な感じがした。昼と夜と一日の時間の分量は誰もが同じに貰っているのだけど、それぞれ自分の生き方、考え方で時間はどのようにでも使えるんだということがなんだか新鮮に思えた。
それぞれがそれぞれの時間を持って暮らしているというようなこと。以前にもこれと同じことを感じたことがあった。
ある日の夕方、気分良く自転車で走っていたら、鼻筋の辺りに涙を光らせた若い女の子とすれ違った。人が泣いているのを見てどきんとしたが、もし、彼女が悲しくて泣いているのだとしたら、と考えて不思議な気持ちになった。一本の道の上で彼女の悲しい今と私のすこぶる爽快な今がすれ違っている。今日という日はみんなに同じ分量しかないのに、彼女のこの夕方はただもうせつなく悲しいものになっている。
彼氏とけんかしたのか、ふられたのか、それとも親が倒れたのか、いろいろを考えていて、ふと、私は彼女に流れている人生の時間の一瞬とたった今すれ違ったのだと思った。なんだかちょっとすごいなと感じた。そしてまわりを見渡すと歩道や店先に人がいて、この人達もみな自分の時間を抱えて生きているんだと思えて、今までそんなふうに街を眺めたことがなかったから、なにかすごく大事な発見をした気がして、おおと感動した。
人が人と出会うということは、その抱えている時間と時間が交じりあうことだ。一日という単位じゃなくても、一生という単位でもそれぞれの人は命という持ち時間が決まっていて、そのなかで出会い、共に過ごし、別れていく。なんだか限られたわずかな時間の中で限られた人と出会ったり、過ごしたりすることは、とても感謝すべき貴重なことのように思えてくる。ある人とは時間が交じり合い、ふたりの共通な時間として流れていくのだけれど、ある人とはぜんぜんかみ合わない。でも、その人は別のある人とふたりの時間を作って、その時間の中を着々と生きている。
なぜ、こんなことを考え始めたかというと、父のことを思い出したからだ。
父と母は私が一歳の頃、離婚したらしい。それっきり、私は一度も父と会っていない。だから父は今、生きているのか死んでいるのかもわからない。母に執着して生きてきたので、不思議と父のことはあまり考えてこなかった。ただ父の姿は幾枚かの写真に残っていて、アルバムを開くたびに「あ、お父さんだ」とは思ってきた。記憶がないので懐かしがって泣くこともできず、ただ淡々と写真を見てきたはずだった。
しかし、何度も繰り返してアルバムを見るうちに、私の頭の中でいつしか写真の父は動き、赤ん坊の私を抱き上げて乳母車に乗せたり、そして父が押す乳母車からの景色や振動をなんとなく覚えているような気になったり、雪かきをして私に雪だるまを作ってくれて、できたときにそれにぺたぺた触ってとても嬉しかったような気がしたり、ないはずの記憶が写真をもとにどんどんできていくのを不思議に感じたこともあった。
鏡を見るたび、自分が母だけでなく父にも似ていて、そういうときは私がこの世に存在しているのは母だけじゃなく、父のおかげでもあるのだとあらためて思ったりもした。
母の話によると、父は母と別れてからまた別の人と再婚し、男の子をふたりもうけたというが、それしかわからなかった。
昔、テレビのドラマで、離婚して別れた父親を慕って、歌手志望の女の子がひとり夜空に向かって「アメイジング・グレイス」をしっとり歌う場面があった。彼女が父親に会いに父親の経営する花屋へ行くのだが、父親の方はまったく気がつかず、家族と仲睦まじく働いているのを見て当惑し、結局は客として父親から勧められた花を買って、泣きながら帰ってくるというシーンがあった。これにはさすがに胸が詰まった。
今でも「アメイジング・グレイス」を聞くと、この花屋のシーンが浮かび、じわじわとせつなくなる。そして時間というものを、もうずっと交わることのない時間というものをぼんやり考える。
たぶん、そういうとき、私は天国という場所を信じたいと思っているのだ。この地上で一度は出会っても、どうしても離ればなれにならざるをえなかった男と女や、親と子や、友と友が死んだとき、この世でのすべてのしがらみから解放されて、再び天国で巡り会い、見つめ合ってほほえみ、手を取り合って抱擁する。
終わりもなく、別れもなく、哀しみもなく、痛みもなく、不安もなく、ただこみあげてくる懐かしさと愛だけに満たされて、永遠の心の平安と幸せのなかでみんながいっしょに生きられるのだとしたら……。
私は父に必ず出会えると思うのだ。たとえ、私がこの世の時間をどれだけ生きても、そのためにどうやっても父の時間と交わらなくとも、必ず出会える。見つめ合うだけで、時を越え、強烈な懐かしさと愛おしさが光のようにあふれてくる瞬間が私と父の間には必ず訪れる。だから、哀しんだり、残念に思ったり、諦めたり、忘れようとしたりせずに、ただ静かに待っていればいいのだと思う。
父は父でこの世のどこかで父の時間を生きていて、私は私でこうして私の時間を生きている。朝になれば同じ太陽を見て、夜は同じ月を見る。私たちは離れた場所でもきっと懸命に生きているのだろう。信じる宗教は何も持っていないけれど、天国のような特別の場所は心のなかに持っていたいと思う。もしそういう場所がないと決めてしまったら、この世を生きていくことはあまりにつらすぎるのではないか。人は人と出会うことをためらい、深く知り合うことを恐れて、どこかで別れを気にして不安でいなくてはならない。しかし、もし天国のような再び出会える場所があるなら、私たちはたとえどうしようもない理由で別れることがあっても、そしてその人と二度とこの世で会えなくなったとしても、何も恐れることはなく、前を向いて自分の時間をせいいっぱい生きていけるのだ。天国はきっとある。失ったものは、このうえなく完璧で幸福なかたちでまた取り戻せる。父を思うとき、私はそう信じている。
それぞれがそれぞれの時間を持って暮らしているというようなこと。以前にもこれと同じことを感じたことがあった。
ある日の夕方、気分良く自転車で走っていたら、鼻筋の辺りに涙を光らせた若い女の子とすれ違った。人が泣いているのを見てどきんとしたが、もし、彼女が悲しくて泣いているのだとしたら、と考えて不思議な気持ちになった。一本の道の上で彼女の悲しい今と私のすこぶる爽快な今がすれ違っている。今日という日はみんなに同じ分量しかないのに、彼女のこの夕方はただもうせつなく悲しいものになっている。
彼氏とけんかしたのか、ふられたのか、それとも親が倒れたのか、いろいろを考えていて、ふと、私は彼女に流れている人生の時間の一瞬とたった今すれ違ったのだと思った。なんだかちょっとすごいなと感じた。そしてまわりを見渡すと歩道や店先に人がいて、この人達もみな自分の時間を抱えて生きているんだと思えて、今までそんなふうに街を眺めたことがなかったから、なにかすごく大事な発見をした気がして、おおと感動した。
人が人と出会うということは、その抱えている時間と時間が交じりあうことだ。一日という単位じゃなくても、一生という単位でもそれぞれの人は命という持ち時間が決まっていて、そのなかで出会い、共に過ごし、別れていく。なんだか限られたわずかな時間の中で限られた人と出会ったり、過ごしたりすることは、とても感謝すべき貴重なことのように思えてくる。ある人とは時間が交じり合い、ふたりの共通な時間として流れていくのだけれど、ある人とはぜんぜんかみ合わない。でも、その人は別のある人とふたりの時間を作って、その時間の中を着々と生きている。
なぜ、こんなことを考え始めたかというと、父のことを思い出したからだ。
父と母は私が一歳の頃、離婚したらしい。それっきり、私は一度も父と会っていない。だから父は今、生きているのか死んでいるのかもわからない。母に執着して生きてきたので、不思議と父のことはあまり考えてこなかった。ただ父の姿は幾枚かの写真に残っていて、アルバムを開くたびに「あ、お父さんだ」とは思ってきた。記憶がないので懐かしがって泣くこともできず、ただ淡々と写真を見てきたはずだった。
しかし、何度も繰り返してアルバムを見るうちに、私の頭の中でいつしか写真の父は動き、赤ん坊の私を抱き上げて乳母車に乗せたり、そして父が押す乳母車からの景色や振動をなんとなく覚えているような気になったり、雪かきをして私に雪だるまを作ってくれて、できたときにそれにぺたぺた触ってとても嬉しかったような気がしたり、ないはずの記憶が写真をもとにどんどんできていくのを不思議に感じたこともあった。
鏡を見るたび、自分が母だけでなく父にも似ていて、そういうときは私がこの世に存在しているのは母だけじゃなく、父のおかげでもあるのだとあらためて思ったりもした。
母の話によると、父は母と別れてからまた別の人と再婚し、男の子をふたりもうけたというが、それしかわからなかった。
昔、テレビのドラマで、離婚して別れた父親を慕って、歌手志望の女の子がひとり夜空に向かって「アメイジング・グレイス」をしっとり歌う場面があった。彼女が父親に会いに父親の経営する花屋へ行くのだが、父親の方はまったく気がつかず、家族と仲睦まじく働いているのを見て当惑し、結局は客として父親から勧められた花を買って、泣きながら帰ってくるというシーンがあった。これにはさすがに胸が詰まった。
今でも「アメイジング・グレイス」を聞くと、この花屋のシーンが浮かび、じわじわとせつなくなる。そして時間というものを、もうずっと交わることのない時間というものをぼんやり考える。
たぶん、そういうとき、私は天国という場所を信じたいと思っているのだ。この地上で一度は出会っても、どうしても離ればなれにならざるをえなかった男と女や、親と子や、友と友が死んだとき、この世でのすべてのしがらみから解放されて、再び天国で巡り会い、見つめ合ってほほえみ、手を取り合って抱擁する。
終わりもなく、別れもなく、哀しみもなく、痛みもなく、不安もなく、ただこみあげてくる懐かしさと愛だけに満たされて、永遠の心の平安と幸せのなかでみんながいっしょに生きられるのだとしたら……。
私は父に必ず出会えると思うのだ。たとえ、私がこの世の時間をどれだけ生きても、そのためにどうやっても父の時間と交わらなくとも、必ず出会える。見つめ合うだけで、時を越え、強烈な懐かしさと愛おしさが光のようにあふれてくる瞬間が私と父の間には必ず訪れる。だから、哀しんだり、残念に思ったり、諦めたり、忘れようとしたりせずに、ただ静かに待っていればいいのだと思う。
父は父でこの世のどこかで父の時間を生きていて、私は私でこうして私の時間を生きている。朝になれば同じ太陽を見て、夜は同じ月を見る。私たちは離れた場所でもきっと懸命に生きているのだろう。信じる宗教は何も持っていないけれど、天国のような特別の場所は心のなかに持っていたいと思う。もしそういう場所がないと決めてしまったら、この世を生きていくことはあまりにつらすぎるのではないか。人は人と出会うことをためらい、深く知り合うことを恐れて、どこかで別れを気にして不安でいなくてはならない。しかし、もし天国のような再び出会える場所があるなら、私たちはたとえどうしようもない理由で別れることがあっても、そしてその人と二度とこの世で会えなくなったとしても、何も恐れることはなく、前を向いて自分の時間をせいいっぱい生きていけるのだ。天国はきっとある。失ったものは、このうえなく完璧で幸福なかたちでまた取り戻せる。父を思うとき、私はそう信じている。
by zuzumiya
| 2010-08-28 07:37
| 日々のいろいろ
|
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by zuzumiya
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