暮らしのまなざし

『舌の記憶』の時間

a0158124_20383427.jpg筒井ともみさんの『舌の記憶』を読んでいたら、最初の「春」の数編でたまらなくなり、先へ読めなくなった。この本には筒井さんが幼い頃、お母様に作ってもらった料理や一緒に作った料理の数々が筒井さんを取り巻く人や季節のエピソードを交えて瑞々しく綴られている。巻末にはお料理のレシピもついているし、ひとつのお話の中にお料理を作っていく過程が材料や分量と共に丁寧に書かれてあったりするので、見る人によっては思い出の食べ物と料理紹介の本になるだろうが、私の場合はちょっと違った。

料理や季節の食べ物を介してはいるが、筒井さんがお母様や俳優であった伯父様伯母様たちと一緒に過ごされた、懐かしく、いとしい時間の回想録だと感じた。特に筒井さんが子供のくせに大人顔負けでその料理の要所要所を押さえて、お母様を賢く手伝う姿なんかは羨ましかった。筒井さんのお料理を介してのお母様との濃密な母娘の時間が私には眩しすぎた。

私は両親が離婚したため、大正生まれの祖父母に育てられた。そのせいか、食生活は小さい頃からきちんとしていたと思う。今思い返せば、祖母の手作りの料理、たとえば蓬団子やおはぎ、白菜のお新香にたくわん、しみ豆腐やウドのごま和え、祖父母が長野県出身だったからか鯉の煮こごりやお味噌汁、赤飯や筍ご飯、運動会の巻きずしやお稲荷さん、お正月のおせち料理など、いろいろ出てくる。小さい頃の私は祖母の作ってくれたそれらの料理を当たり前に、別段感動もなく普通に食べて育った。

もともと祖母はなんでも自分一人でやりたがり、お茶碗を洗うのでさえ「人が洗うのは気持ちが悪い」という潔癖性でもあった。子供が台所に立って手伝うなんてのはもってのほか、いるだけで「あっち行け」と追い払われた。完璧主義者でせっかちだったようにも思う。だから私は祖母と一緒に何か料理を作った記憶がないし、教えて貰った記憶もない。手を出さないかわりに、一つの料理が出来上がる過程をそばでじっと見ていたという記憶すらない。すし飯を団扇で扇ぐことすらしないで育った。

筒井さんの本を読むたびに、ああ、なんて勿体なかったのだろうと思う。強引に頼んで教えて貰えばよかった、せめてもよく見ておくのだったとひどく後悔する。でもやはり、あの祖母の性分では無理だったかなとも思う。小さな頃が足手まといだったにせよ、もう少し大人になれば手伝う機会もあっただろうに、と思われるかもしれないが、大きくなればなったで私は恋愛にのめり込んでしまって、ほとんど家で食事をとったことがなかった。

小さい頃は祖母が「外食など勿体ない」という締まり屋だったので、外でラーメンすら食べられなかった。そんな私を何度か親戚が誘ってくれてレストランへ連れて行ってくれた。そんなときは決まって、家にオーブンがないので作れないグラタンばかりを頼んだ。そういう私だったので大学時代は彼氏と外食するのが嬉しかったし、なにより彼と離れがたかったので夕食の時間に家に帰っていたためしはなかった。

そうこうしているうちに、祖母は七十歳で死んでしまった。私が大学を卒業した後「役目を終えました」という絶妙なタイミングでいなくなった。嫁入り修行として、さあ、これからというときに祖母はいず、結局何ひとつ教わらず、何ひとつ見もせず、ただ祖母の作ってくれた料理をもくもくと食べ尽くして終わった。

普通なら、と考えてしまう。祖母でなく母親と暮らしていれば違うのではないか。なぜならこんなに早く「料理の師」と引き離されることはないのだから。結婚するまではもちろんのこと、結婚してからも実家というのがあって、そこに帰ると母親という「料理の師」がいてくれていろいろと教えてくれるのではないか。そして、料理づくりを介して母娘の時間、女と女の時間、主婦と主婦の時間が台所に、食卓にほほえましく流れるのだろうと想像できる。

私の場合は祖母がいなくなり、母親とも一緒に暮らすこともなく結婚したので料理のことは何もわからずじまいで、もっぱら本に頼ってきた。料理の本のくせに、なんと味気ないのだろうと何度も思った。本を見て作る料理が理科の実験のように感じるときもあった。やはり、人の口に入るものを作るのだから本ではなく、生身の人に教えてもらった方が美味しくなるように思う。何グラム、何㏄ではなく、「ひとつまみ」やら「目分量」やら「こんなもん」のゆるさ、温かみが料理に出る気がする。愛情を込めてというけれど、私はこの「目分量」なんかにすごく情を感じる。

あまりに簡単な常識的なことで、基礎中の基礎といったものが本には載っていなかったりするので困ってしまい、さすがに母親に電話したこともある。オクラは生で食べられるのか、それともさっと湯がくのか。恥ずかしいがこんなこともわからない。さっと湯がくのだと教えてもらえば、別段それに続く話もなく「ありがとう。じゃあね」と電話を切る。
料理のことは電話などではなく、台所という空間に並んで立って、材料やら包丁やらを手にしていなくては、生き生きと話せないものなのだとこのとき感じた。

だから、筒井さんの本は胸にこたえる。私の食べ物や料理の思い出も時間も、祖母の死と共にすっと消えてしまった。誰も祖母の後を引き継いでくれないで、時間がぷっつりととぎれてしまった。あまりにも早すぎる、寂しすぎると思う。そして、そんな私は困ったことに娘を持つ身なのである。

早春の日だまりのなかで、筒井さんの本の「春」の章をひとまず読み終えた。それから先に進めなくなったのは、筒井さんの文章のせいではない。何とも言えない羨ましさと寂しさと、それからふと私の中に湧いて出た「たまには母の家を訪ねてみようかな」という思いつきのせいなのだった。
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by zuzumiya | 2010-08-27 20:39 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
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