チェロに抱かれた女〜ジャクリーヌ・デュ・プレ〜

a0158124_2005325.jpg仲のいい姉妹がいた。姉の名はヒラリー、妹の名はジャクリーヌといった。姉妹は音楽好きな母に育てられた。姉はフルートで幼少から才能を発揮していた。家族の誇りとしての姉を妹は賞賛しつつ、憧れと羨望をもって見続けてきた。いつしか妹はチェロという楽器を選んだ。ジャクリーヌ・デュ・プレは姉への羨望と対抗意識からチェロを始めたのだった。

『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』という映画を見た。私は芸術家の伝記ものが好き。単に、苦労して成功をつかんでいくサクセスストーリーが好きというのもあるが、芸術家の人生にどんな起伏があったのか、天才といえどもどんなふうに人間的だったのか、どんな状況であのすばらしい芸術作品が生まれたのか、その背景を知るのは楽しい。

ところで私はジャクリーヌを知らなかった。ただチェロという楽器は昔から気になっていた。チェロはチェリストになにか抱きしめられているように見えるときがある。なにかとても人間的な触れ合いをされる楽器なのだ。特に女性のチェリストは膝を開いて全身でチェロを抱え込む。休憩するときはチェロに腕をまわして肩をかける。まるで大切な恋人のように。この「楽器を抱きしめる」というイメージがずっと頭に張り付いていたので、今回、ジャクリーヌの映画を私は見てみようという気になった。

さっき「恋人」という言葉を使ったが、ジャクリーヌにとってチェロは「恋人」という以上に、ある意味で「交わりの相手」といった方がいいのかもしれないと思う。彼女は激しい人だった。その演奏方法も激しかった。膝を開き、チェロを抱き寄せ、頭を振って、髪をかき乱して、汗をたっぷりとかいて全身で演奏した。その姿はまるでチェロによって最高のエクスタシーをもたらされているようだ。音を求め、血流に音が走り、全身に共鳴していく彼女のエクスタシーは最高の美しい音となって観客に降りそそいでいたのではないか。

ものを創り出すという作業は、対象を我が身に引き入れ、一体になって解放して、あるべき姿を求めて、最高の高みへ昇りつめて行く作業である。人間の枠を越えて魂が「何か」と交信する、混合される作業である。すべての芸術家が作品を生み出す過程で、ある種の交わりをし、エクスタシーを感じているものと私は思う。

ジャクリーヌには結局、チェロしかなかった。チェロだけがジャクリーヌの求めに応じて、ジャクリーヌを裏切らず、深く深く彼女と交わり、一体になれたのだと思う。人間の男達は誰もジャクリーヌとチェロほどに一体にはなれなかった。夫でも、姉からセックスの相手として差し出された義兄でも。そして悲しいことに、大好きな姉ですらチェロほどに一体にはなれなかった。

この映画にはいろいろ考えさせられる。女性の幸せって何だろうとか、光を集める人がいれば必ずその影になってしまう人がいるということ、特別な女と普通の女とはどう違うのかとか、嫉妬や愛についてのもろもろのこと。

果たしてジャクリーヌは不幸だったのか。たしかに賞賛は浴びて、後世に残るすばらしい作品を残した。だが、とてつもなく孤独だったことは確かだ。映画の中で、ジャクリーヌがロシアの演奏旅行で偉い先生に通訳を通して褒められたときに、「私は実はチェリストにはなりたくないの。そんな気はなかったのになりゆきで演奏会に出されて、チェロは大嫌い……」と、いわゆる愚痴をぶつけてしまうシーンがある。それからジャクリーヌが「ヒラリーは自分で自分の道を決めた」と夫に言うシーンがあったが、ジャクリーヌの不幸と精神の孤独の源はそこにあるのではないか。

ジャクリーヌは皆に賞賛される姉が羨ましかった。家族にも世間にも「私を見て!」と叫びたかったのだろう。しかし、チェロとジャクリーヌはたまたま相性がよかった。そこにも運命的なものを感じてしまう。なぜなら淋しさを抱えるジャクリーヌの体にチェロという楽器はぴったり寄り添うからだ。ジャクリーヌはチェロを抱き寄せ、淋しさを、自分の中の「私を見て!」という激情をぶつけていったのだと思う。

ジャクリーヌの人生には決定的な間違いがあったと思う。なぜ自分はチェロを弾くのか、弾いていくのかを立ち止まって考えることなく、すなわち挫折することなく、えんえんと演奏旅行を強いられた。そしてまた不思議なことにジャクリーヌの不満や鬱憤や淋しさはひとたびチェロを抱けば、演奏に深みを与えてしまったのではないかと思う。ジャクリーヌは賞賛ばかりでひた走り、自らを振り返るチャンスを与えられなかったのだ。これは人生において人の幸、不幸を左右する。自分が生きている意味と価値がわからなくなるからだ。

振り返る唯一のチャンスは姉ヒラリーの結婚の告白だった。ジャクリーヌは姉と一緒にいたいが為に「チェロをやめる」とまで言い出すが、チェロ以外には何もないことを他ならぬ姉から言われてしまう。姉が言うセリフ「普通の女になるのはそれはそれで難しいことなのよ」ここに姉ヒラリーの決意を私は感じた。このひと言がジャクリーヌにのちのち「ヒラリーは自分で自分の道を決めた」と思わせたのではないか。

たしかにヒラリーはフルートをやめ、自然に囲まれた田舎の家で夫に愛されて子どもと平和に暮らすことを選んだ。そこに妹への羨望や夢を捨てきれずにくすぶるような姿はいっさい、なかった。潔くヒラリーはフルートをやめ、今ある生活を心から楽しんでいた。ヒラリーはまさに自分で自分の道を選んで幸福だったのだ。

しかし、ジャクリーヌの方はそうとは言えなかった。これぞ不思議な運命、チェロの演奏を通して知り合ったピアニストと恋に落ちてしまうのだから。才能が才能に恋をしたようなものだ。このとき、ジャクリーヌは初めて自分のチェロに「あなたは私の味方ね」と感謝している。しかし、これは私に言わせれば「チェロがジャクリーヌを放さなかった」としか言いようがない出来事だ。今までもこれからも、ジャクリーヌはチェロを迷う暇なく抱き続けていかねばならなくなったのだから。

やがて「チェリストになんてなりたくなかった」と言っていたジャクリーヌも不治の病、多発性硬化症を発病して、今度はどんなにチェロを弾きたくても弾けなくなってしまう。あくまでピアニストとしての夫しか持てず、チェロが弾けない自分が皆から愛されているのかどうかもわからず、結局、自分にはチェロしかなかったことを孤独のうちに噛みしめて衰弱していく。ただひとり、最後に姉だけが、チェロを始める前の、有名でも病気でもない、子どもの頃の遊び相手のジャクリーヌを今でも愛するものとして大事にイメージできると語る。それを聞いて安心したのか、ジャクリーヌはその後息をひきとるのである。42歳だった。

朝日新聞のコラム『eメール時評』で、神戸女学院大の内田樹教授による「中田・イチロー 天才とは」という文章を読んだ。
「天才とは、自分の最良の資質を知り、そこに持てるリソース(資源)を最高に効率的なしかたで集中する『術』を知っている人間のことである。天才とは、自分の才能を開花させる才能を持つという『一つ次数の高い』運動性の名である。」

ジャクリーヌは天才だったのだろうか。チェロという自分に最良の楽器を選び取った、ただその一点で彼女は天才だったといえる。しかし、天才だからといって人は幸せを約束されるわけではない。天才かどうかはあくまで自分の才能の開花に関する問題でしかない。幸せを選び取る才能はまた別に必要なのだ。すなわち自分で今ある自分を愛することができるか、という才能である。ジャクリーヌの場合は、発病するまでチェロを弾くことを自分で選び取ったこととして自分に納得させて、そこにアイデンティティを、真の幸福を見出せなかった。チェロとともにいかに自分が生きてきたのかを実感したのは、発病してチェロが弾けなくなる不安と向き合ってからだった。

コラムは続く。
「彼ら(天才)はその卓越した資質によって美しいのではない。おのれの資質を愛する欲望の深さによって美しいのである。」

ジャクリーヌがその意味で美しかったとすれば、それは悲しいことにやはり発病してからだろう。ジャクリーヌはチェリストとしてのおのれの資質を号泣するほど愛していたのだから。
ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ。5歳からチェロを始め、多発性硬化症でチェロを手放すまで彼女にはチェロしかいなかった。チェロもまた彼女を選んだ。そういう人生を歩んだ女がいる。楽器を抱きしめ、楽器から抱かれた女、ジャクリーヌ。
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by zuzumiya | 2010-08-27 20:02 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(0)
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