暮らしのまなざし

朝の新聞

息子が小石川の新聞販売所へ入ってからもう2ヶ月になる。
入った当初はちょうど天候が不順の頃で、ほどなくして神様の意地悪と思えるほどの大雨と大風を経験した。新聞配達をしながら専門学校に進学することが決まった頃から、すでに夕方出会う新聞屋の姿がしのびなくて、まともに見る事ができなくなっていたが、夜になって雨が降り出したりすると、自然と夫婦の口は重くなって、机の前に戻ってもカーテンを端を引いてしきりに外ばかり窺ってしまう。そんな私の姿に夫は
「雨だからって、いつまでも気にしていてもしょうがないだろう。これからは雪だって経験するんだ」
と言った。わかってはいても、どうしても心配してしまう。そんな夜は、深夜寝る段になっても眠れず、思い切って立ち上がって外を見ると、街灯の下の路面は滝のように水が流れていて、罪悪感で胸がいっぱいになった。

春の嵐の晩はもっと悪かった。
古いマンションだから歪みがあるのか、サッシを閉めてもあるかなきかの隙間があるようで、ひゅうひゅうとひっきりなしに笛のような風の音がする。それが弱まったり、時にこちらの弱気を見透かしたように強く鳴ったりして、ふだんでもそんな音を聞いていれば、遥か原始の昔、洞窟で身を寄せ合ってうずくまっていた頃の不安と心細さを思い出して居たたまれないのに、この嵐のなか、息子が免許をとったばかりのバイクに乗って、重たい数百部の新聞の配達を一人でやっているのだと思うと横にもなれなかった。
見つめる闇の中に自然と、息子がバイクを倒してビニールに包まれた新聞が無情にもするすると流れ落ちて行く様が見えて、どうにも可哀想で、でもどうしてやることもできず、せめてもこの不穏な風が早く止んでくれたらと願うばかりで、蒲団の上に幽霊のように座っていた。
かといって、夫や娘を揺り起こすわけにもいかず、好きな音楽でも聞けばいいとイヤフォンを探すも、それでは息子の最後の叫びの「お母さん」が聞こえないと思い直してやめた。以前から春という季節は天候が定まらず好かなかったが、この大雨と大風の夜を経験してからは大嫌いになった。

4月の入学式で久しぶりに会った息子は上気して仕事のことを話してくれた。
わざわざポケットに配達ルートの地図をコピーしたのを小さく折り畳んで持って来ていた。明治神宮の砂利道を長く歩きながら、昼食をとる店に着くのを待ちきれないのか、A4の紙が上下左右に何枚もテープで貼られた手製の大きな地図を広げては、夫と私に
「ここからここまで配るんだよ」
と自慢気に話した。夫は感心してふんふんと聞いていたが、私はその広げた紙の大きさにまず涙が滲んで、これを小さく小さく折り畳んでいた朝の息子の姿が見えて、涙の玉がこぼれそうになった。
食べ盛りの息子のために表参道の焼き肉屋へ入ったが、そこでも地図を広げて話すものだから、息子はコップに手が当たって水を床にこぼしてしまった。一瞬何が起こったかわからなかったのか、
「水、こぼれたじゃない。はやく拭きなさい」
と私がハンカチを差し出すまで、息子はただ下を向いてぼんやりと水を見ていた。あれはきっと寝不足なのに久しぶりに両親に会って嬉しくて、調子が狂ったせいだと思う。声を荒げはしなかったが、息子にそのことを気づかせてしまったのではないか、何となく恥をかかせてしまったようで、今でも少し後悔している。

話を聞くと、真面目で誠実な息子らしく、午前2時の目覚ましが鳴る前に起き、集合時間に一度も遅れたことはないという。店長も新聞奨学生だった人で、人質のような自分の辛い経験から「これは奨学生にやらせる仕事ではない」と時にははっきり守ってくれるそうで、息子が新聞を配りきれなかった時も手伝いにきてくれたり、バイクを倒したときも(やはり、あったのだ)一緒に新聞を拾って「あとはやっておくから、先に行け」と言ってくれたり、何かと助けてくれるそうで、親としては両手を握りしめて、深々と頭を下げたい気持ちである。
百戦錬磨の先輩たちもみな専門学校に通う者ばかりで、男だらけの気安さが楽しそうでもあり、食堂の食事についても
「こんなに大きなハンバーグが出るんだぜ」
と笑って話すので、満足しているようだった。鼻風邪を引いて、すぐに販売所近くの医者へ自分で行ったというのには驚いたが、せつなさはすぐに頼もしさに変わってくれた。
「なんとか、400部を2時間で配りきれないとなあ、学校に遅刻しちゃうんだ」
朝、他の新聞販売所と取り合いになる一台しかないエレベーターの話、ここの場所に何時までに来ないととてもここまで回りきれないなど、天候だけではない時間との戦いもあって、そしてそこにさらに学校が始まってくるのかと思うと、私はつい暗くなり、溜め息が漏れ出てしまった。

入学式の日は息子は店長に頼んで休日にしてもらっていたが、これから高校の友達とカラオケに行くというので、久しぶりなのに案外そっけないなとは思ったが、たしかにこれ以上一緒にいても情が移るばかりで連れて帰ることもできない。息子の方でも帰りたい気持ちが湧き上がれば辛いだろうから、食事をしてすぐに別れることにした。
帰りの電車のなか、人に押されて、迂闊にも私だけ夫と息子いる所から離れて立つはめになった。最後の最後に話もしないで他人のように澄まして立っているのが勿体ない気がした。昔は恥ずかしがって、親といても極端に他人の振りをしたがる息子だったが、この日ばかりは降りるとき、私に向かって笑って大きく手をあげた。

夫は始終、無口だったが、そして男親とはそれほど情が薄いものかと私が責めると
「お前がひっきりなしに訊いているから、俺はもういいと思ったんだよ」
と言った。それを聞いて考えた。息子を辛い新聞奨学生にしなくてはならなかった情けない親の負い目は夫婦二人にあるのに、母親は子を想う情のようなものでそれをうやむやにしてしまう。それはずるいことなのかもしれない。
そうはできない男親というものの、息子の笑顔に決して許されてはいけないんだと思う夫の気持ちがわかった。
その後、数日してメールで「ついに400部の新聞を2時間で配ることができた」と息子は知らせてきた。「凄いじゃないか」と誉めてやったが、無理をしているのだろうと思った。

学校が始まり、午後の授業のほとんどを夕刊配達のために出られない息子は、後ろ髪引かれる思いで学校を後にしているのだろう。想像以上に焦りが出始めたようで、すぐにメールが飛んで来た。
「パソコンを買わないとどうしてもついていけない。すぐにでも買って遅れを取り戻さないと怖くてならない」
もちろん普通のパソコンは持って行っていたが、忙しいなかで3Dの技術を学ばなければならない息子は、それでは学校の補習ができないし、課題提出もままならない。新聞奨学生は新聞配達しながら勉強もするという偉さはあっても、作品勝負の世界ではそんな裏事情はまったく加味されない。良い作品だけがひとり歩きして、更なる運を持ってくる。
夫はどうやって貯めていたのか、3Dの作業ができるパソコンと必要なソフト一式を買うための大金をすぐに送ってやった。自分のパソコンはモニターが寿命で、時々、画面全部が嘘のように真っ赤になってしまうが、買い替えることができないでいる。それでも息子のここぞという時に手助けができて、夫はほっとしているのだろう。

毎朝、家を先に出て行く者が新聞受けから朝刊を抜きとって、玄関に投げ入れておくのがうちのいつものしきたりだった。いつの頃からか、7時に夫が出て行っても、廊下に新聞が投げ込まれていない。問題の多い娘の高校入試のために、思い切って仕事をやめてから私は家にいるので、主婦である私が新聞を取ればいいと思っているのかもしれない。そうは思っていても、どこかでそれだけではないような気がしている。
私自身が毎朝の新聞に触るとき、少しためらいがあるのだ。不思議と食卓に置かれた新聞には何も思わない。読み終わった新聞をばさりと乱暴に新聞置き場に放ることだってする。ただマンションの廊下の、玄関のドア横の新聞受けに差し込まれているあの朝の新聞を取り出すときにだけ、心が揺れる。
もう2ヶ月にもなるというのに、新緑の気持ちのいい季節になったというのに、パソコンもきちんと買ってやったというのに、だ。

朝のあの新聞だけは、正直言えば手にしたくない。
逃げているとはわかっていても、ぴしんという痛みがくる。特にもう晴れているのに、ビニールがかかった新聞が差し込まれているとき「ああ、雨だったんだな」と思えて、そして、昔はあんなにも眠れなかったのに、いつのまにか雨を気にせず眠れている私の薄情さを思うと、最初に触れる新聞の角は指先に痛いし、引き出した掌にはぐっと重い。
夫も新聞に触るのが嫌で、その作業を故意に私にさせているのではないかと、何だか思えるのである。そうだとしたら怒るか、と言えば、そうではない。
私は怒らない。文句も言わない。真相も確かめない。
ただ、ただ、夫もあわれだと思うだけである。
行き場のない気持ちを私はこうして書くことができる。ここでこうして収めて行くことができるのだから、私は何も言わない。
そして、母親が息子を想うあの情のずるさを知っているから、私が毎朝の新聞をこの手で抜き取っていかねばならないと思っている。
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by zuzumiya | 2010-08-25 17:52 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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