ささやかなる詩情

昔から俳句と言えば久保田万太郎が好きなのだけれど、そして万太郎にもいろいろな句があって、何処がいちばんに気に入っているかと言えば、
「短日やうすく日あたる一トところ」
「ものの芽にかがめばありぬ風少し」
の句の持っている、ひと言で言ってしまえば、「こんなものを詠んで、句になるものなのか」というほどの「ささやかさ」である。「ささやかな詩情」というべきか。
私の中では万太郎の凄さというか、この人間を好んでやまないのは、この「ささやかなもの」にまず目をつけて、「詠みたく」なって、その後、何ともいえぬ情感と余情の漂う詩にしてみせるところである。そういうささやかなものに惹きつけられる万太郎という人間の心根がどうにも愛らしくてしょうがない。

先だってから、随筆で井伏鱒二、小沼丹と読んできて、その流れで今は庄野潤三を読んでいる。それも初期の随筆の『自分の羽根』や自選随筆集『子供の盗賊』から読んでいる。庄野さんといえば、老夫婦の穏やかな暮らしのなかに、孫や子供たちや友人が関わってくるあの一連の日常の記録のような、私小説のような作品群が良いものとして知られているが、実は私はあまり好まなかった。
手に取って数ページ読むと、関係のない人の日記を読まされているような気がしてきて、その静けさや穏やかさがだんだんつまらなくなって飽きてくる。30代に買った『うさぎのミミリー』はそんな理由で読み終わらずに本棚にある。
ものには本当に芯から出会う時期というのがあって、庄野さんも40過ぎて漱石の作品にそう感じていたらしいが、私と庄野さんとの本当の出会いは40代のこれからなんだろうと思う。
『自分の羽根』のなかで庄野さんは、こう書いている。

<私は自分の経験したことだけを書きたいと思う。徹底的にそうしたいと考える。但し、この経験は直接私がしたことだけを指すのではなくて、人から聞いたことでも、何かでよんだことでも、それが私の生活感情に強くふれ、自分にとって痛切に感じられることは、私の経験の中に含める。
私は作品を書くのにそれ以外の何物にもよることを欲しない。つまり私は自分の前に飛んで来る羽根だけを打ち返したい。私の羽根でないものは、打たない。私にとって何でもないことは、他の人にとって大事であろうと、世間で重要視されることであろうと、私にはどうでもいいことである。人は人、私は私という自覚を常にはっきりと持ちたい。
しかし、自分の前へ飛んで来た羽根だけは、何とかして羽子板の真中で打ち返したい。ラケットでもバットでも球が真中に当たった時は、いちばんいい音を立てることを忘れてはならない。そのためには、「お前そんなことを書いているが、本気でそう思っているのか」と自分に問うてみること。その時、内心あやふやなら、その行は全部消してしまい、どうしても消すわけにはゆかない部分だけを残すこと。
どうせ大したことは見も、感じも出来るわけではないということを胸に刻むこと。
その代り、「当り前のことで、何も珍しいことではないかも知れないが、自分はいっておきたいことがある。どうもよくは分からんが、自分には話すだけの価値があることのような気がするから。別に誰が聞いてくれなくてもいいことだが」ということは、しっかりと書きたい。つまり、そいつこそ私の打つべき羽根に間違いないだろうから。
以上が子供と羽根つきをしたことから得た私の文学的感想である。>


これを読んで「一連のあの作品群が生み出された背景というのはこれだったか」と、とても合点がいった。私は特に、

<当り前のことで、何も珍しいことではないかも知れないが、自分はいっておきたいことがある。どうもよくは分からんが、自分には話すだけの価値があることのような気がするから。別に誰が聞いてくれなくてもいいことだが」ということは、しっかりと書きたい。つまり、そいつこそ私の打つべき羽根に間違いないだろうから。>

というところが大好きなのだが、ここを読んでひとり心の中で快哉を叫んだ。そして、庄野潤三という人間とようやく「初めまして」と握手をしたような気になった。
この『自分の羽根』は庄野さんが「文学的感想」などと珍しく堅苦しく書いて、はっきりとその意図するところを伝えているが、庄野さんの随筆のほとんどは、どちらかというと、ふだんの日常であり、身辺雑記的で、こんなに主張することは珍しく、何がどうということはないものである。どういう話か、筋などを言っては「はあ?」という顔をされそうで、逆効果である気もする。
しかし、私のような文章のへたくそに「何がどうということはないことのなかにある凄さ」は非常に説明するのは難しく、野暮のように感じもして、良さをわかってもらうためには引用に次ぐ引用で、「ほら、ここ」「ほら、そこ」と言ってまわるしかないのだけれど、あえて言うならば、先ほど書いた久保田万太郎のような「ささやかな詩情」が、庄野さんの文章世界にも満ちているのだ。

昔の随筆には「そこはかとなさ」「なんということもない面白み」みたいなものの良さを
滋味や豊かさといって、読み手には掬いとって楽しむゆとりがあったように思う。食べ物でいったら、落雁のような淡い上品な甘さだろうか。そして、逆に言えば、書き手にとっては、いかに目立たない、何気ないもののなかに何かを見つけて書くか、というのを競い合っていたふうがある。そういうもののなかに哀歓を見つけることに随筆における人間味を賭けていたように思える。
そしてそのことに、私も40代になって、しみじみ共感を覚えるようになってきた。
たとえば、庄野さんの「家風」について書かれた「あわれときびしさ」という随筆のなかで、

<外房の或る小さな漁村では、夜村の中を歩いていると、電燈のついた部屋で家族が食事をしているのが見える。(中略)男はみんな、立て膝をして御飯を食べている。これが何だか、おかしい。おかしくてあわれである。 >

と書いているが、私はその「おかしくてあわれ」がわかって、居ても立ってもいられない。ここでも庄野さんの手を強く握ってしまう。
見過ごしてしまいそうな何ということはない風景なのだが、ここをおかしくてあわれと感じる庄野さんという人間の眼を「短日やうすく日あたる一トところ」と詠んだ万太郎の眼と同じに、私はとても信頼できると思えるのだ。

文学や音楽や芸術の分野でも血筋という言葉を使うなら、私はやはり万太郎や小沼や庄野
さんの血筋と思いたい。一読して「だから何なの?」と真顔で問われても、静かに微笑んでいられるような「ささやかな詩情」を見つけたい。そういうものを愛でたい、慈しみたい。
そういえば、私の筆名の名字はひらがなで「しょうの」であった。
これもささやかな縁なのかもしれない、と今思い直している。
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by zuzumiya | 2010-08-25 17:33 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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