夕方の老人
年々、孤独だと思えるものの中身が変わってきたように思う。
若い頃は誰かがいるとかいないとか、他人という人を介して感じられる孤独だった。
でも、年をとってくると、それがもっと深い、もっと根源的なものに変わってくる。
そして、恋人や家族のようなどんなにか近しい者であっても、それはどうすることも、どう慰めることもできない、手の届かないものになってくる。
でも、書いてみれば、何ということもない。
「人は一人で生まれて来て、一人で死んで行く」のように、厳然たる事実なわけで、たしかにどうすることもできないそういうものだったりする。
たとえば。
ここまで生きてみても、そしてこれからいくら生きてみても、おそらくは、この世にはどうにもならないことがあるということ。
別段、世界の戦争や飢餓や貧困という大きな話ではなく、実に個人的な日常生活レベルにおいてでもだ。そして、それはやっぱり、素直に諦めなくてはいけないんだろうが、ほんとのほんとは諦めきれず、ほのかに淡い夢になって、わずかな生の時間をも支えて行く。
それから。
いいときも悪いときも常に変化して移り変わって行くこと。そして、それは止められるものではないこと、受け入れて行くしかないこと。
そして。
こんなことぼんやり考えているこの暇人の私も、今生限りで死んで行くこと。
輪廻転生があってもなくても、この私であることはもう絶対的に有限であること。
そして、たとえ生まれ変わって、お金があっても貧困の最中でも戦争の最中でも、喜怒哀楽を感じながら、人は懸命に生きて行くのを繰り返すことには変わらないこと。
ざっと思いつく限り、そんなところから、最近の私の孤独はしんしんと生まれくる。
よく、夕方に買い物からの帰り道、住宅街を抜けてくると、猫の額ほどの庭に老人たちがつっかけで出て、何やら植木をいじってみたり、眺めたりしているのを見かける。
そんな姿はどこか微笑ましいのだけれど、どうして老人たちはみんな夕方になるとこうも同じことをするのだろうと不思議に思っていた。夜のうちに植木に水を吸わせる、なんてことはもちろんわかっているのだけれど、どうもあの老人たちの後ろ姿にはそれだけではないような、何かしみじみとしたものが漂っていて心を惹いた。
100歳を迎えた詩人、まど・みちおさんに「れんしゅう」という詩がある。
れんしゅう
今日も死を見送っている
生まれては立去って行く今日の死を
自転公転をつづけるこの地球上の
すべての生き物が 生まれたばかりの
今日の死を毎日見送りつづけている
なぜなのだろう
「今日」の「死」という
とりかえしのつかない大事がまるで
何でもない「当り前事」のように毎日
毎日くりかえされるのは
ボクらがボクら自身の死をむかえる日に
あわてふかめかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろうということか
これはまどさんを特集したテレビの放送で、まどさんが西の空の夕焼けを見ている姿に流れた詩だった。だから、「今日の死」というのは日が暮れて行くその夕焼けのことなんだなあと、そして、夕焼けを眺めながら、死んで行くことの「れんしゅう」を毎日させてもらっているんだなあ、と思って、そうねえと少ししみじみした憶えがある。
そんなことが以前にあったから、夕方老人たちがする庭いじりも変に気持ちに染み付いていたのだろう。
私はまだ40代で、ほんとの老境などわかりもしないが、いまの段階でさっき書いたような孤独が何とはなしに心に迫ってきて、そこから思うに、人間同士はどうしてもやさしさがあって(私はひとえにやさしさだと思っている)、言っても詮ないような類いの孤独にも、とかく慰めを言いすぎるのだと思う。実際には言わなくても、言葉を持ってる人間の宿命というか、言わねばならぬ、言いたくなるとうずくのが人間なのだろう。
反対に、自然はたとえ小さな鉢植えの植物であっても、いいも悪いも常に変化して移り変わって行くことをいつでも無言で受け入れて、なるがまま滅んでは再生して行く。
何かそういうことを、老人たちは一人で受け取って、一人で静かに飲み込んでいきたいのだろうと思う。庭の植物のそばにいて、しんしんと落ち着いていたいのだと思う。
それでもって、そういう一連の事情など考えるものでもなく、当たり前に感じるものとして五感にあるから、みんなこぞって、夕方になるとつっかけに足を落として、庭にふらりと出てみたくなるんだろう。
不思議なことに。そして、やっぱり、ありがたいことに。
先日、私も試しに土を買って来て、夕方にベランダの鉢植えの植え替えをしてみた。
一日の疲れを含んだような練れたゆるい風に吹かれて、鳥の声やら散歩する犬の鳴き声やらが聞こえてきて、やっぱり、ものすごくいいもんだなあ、と思った。
今日も終わって行くというささやかな充実感のような、移り変わって行くものにただ身をまかせて流されてゆく物寂しさのようなものが湧いて、そういうやさしい静まりのなか、言っても詮ない最近の孤独を、人でなく葉っぱや土に触りながら、確認していた。
若い頃は誰かがいるとかいないとか、他人という人を介して感じられる孤独だった。
でも、年をとってくると、それがもっと深い、もっと根源的なものに変わってくる。
そして、恋人や家族のようなどんなにか近しい者であっても、それはどうすることも、どう慰めることもできない、手の届かないものになってくる。
でも、書いてみれば、何ということもない。
「人は一人で生まれて来て、一人で死んで行く」のように、厳然たる事実なわけで、たしかにどうすることもできないそういうものだったりする。
たとえば。
ここまで生きてみても、そしてこれからいくら生きてみても、おそらくは、この世にはどうにもならないことがあるということ。
別段、世界の戦争や飢餓や貧困という大きな話ではなく、実に個人的な日常生活レベルにおいてでもだ。そして、それはやっぱり、素直に諦めなくてはいけないんだろうが、ほんとのほんとは諦めきれず、ほのかに淡い夢になって、わずかな生の時間をも支えて行く。
それから。
いいときも悪いときも常に変化して移り変わって行くこと。そして、それは止められるものではないこと、受け入れて行くしかないこと。
そして。
こんなことぼんやり考えているこの暇人の私も、今生限りで死んで行くこと。
輪廻転生があってもなくても、この私であることはもう絶対的に有限であること。
そして、たとえ生まれ変わって、お金があっても貧困の最中でも戦争の最中でも、喜怒哀楽を感じながら、人は懸命に生きて行くのを繰り返すことには変わらないこと。
ざっと思いつく限り、そんなところから、最近の私の孤独はしんしんと生まれくる。
よく、夕方に買い物からの帰り道、住宅街を抜けてくると、猫の額ほどの庭に老人たちがつっかけで出て、何やら植木をいじってみたり、眺めたりしているのを見かける。
そんな姿はどこか微笑ましいのだけれど、どうして老人たちはみんな夕方になるとこうも同じことをするのだろうと不思議に思っていた。夜のうちに植木に水を吸わせる、なんてことはもちろんわかっているのだけれど、どうもあの老人たちの後ろ姿にはそれだけではないような、何かしみじみとしたものが漂っていて心を惹いた。
100歳を迎えた詩人、まど・みちおさんに「れんしゅう」という詩がある。
れんしゅう
今日も死を見送っている
生まれては立去って行く今日の死を
自転公転をつづけるこの地球上の
すべての生き物が 生まれたばかりの
今日の死を毎日見送りつづけている
なぜなのだろう
「今日」の「死」という
とりかえしのつかない大事がまるで
何でもない「当り前事」のように毎日
毎日くりかえされるのは
ボクらがボクら自身の死をむかえる日に
あわてふかめかないようにとあの
やさしい天がそのれんしゅうをつづけて
くださっているのだと気づかぬバカは
まあこのよにはいないだろうということか
これはまどさんを特集したテレビの放送で、まどさんが西の空の夕焼けを見ている姿に流れた詩だった。だから、「今日の死」というのは日が暮れて行くその夕焼けのことなんだなあと、そして、夕焼けを眺めながら、死んで行くことの「れんしゅう」を毎日させてもらっているんだなあ、と思って、そうねえと少ししみじみした憶えがある。
そんなことが以前にあったから、夕方老人たちがする庭いじりも変に気持ちに染み付いていたのだろう。
私はまだ40代で、ほんとの老境などわかりもしないが、いまの段階でさっき書いたような孤独が何とはなしに心に迫ってきて、そこから思うに、人間同士はどうしてもやさしさがあって(私はひとえにやさしさだと思っている)、言っても詮ないような類いの孤独にも、とかく慰めを言いすぎるのだと思う。実際には言わなくても、言葉を持ってる人間の宿命というか、言わねばならぬ、言いたくなるとうずくのが人間なのだろう。
反対に、自然はたとえ小さな鉢植えの植物であっても、いいも悪いも常に変化して移り変わって行くことをいつでも無言で受け入れて、なるがまま滅んでは再生して行く。
何かそういうことを、老人たちは一人で受け取って、一人で静かに飲み込んでいきたいのだろうと思う。庭の植物のそばにいて、しんしんと落ち着いていたいのだと思う。
それでもって、そういう一連の事情など考えるものでもなく、当たり前に感じるものとして五感にあるから、みんなこぞって、夕方になるとつっかけに足を落として、庭にふらりと出てみたくなるんだろう。
不思議なことに。そして、やっぱり、ありがたいことに。
先日、私も試しに土を買って来て、夕方にベランダの鉢植えの植え替えをしてみた。
一日の疲れを含んだような練れたゆるい風に吹かれて、鳥の声やら散歩する犬の鳴き声やらが聞こえてきて、やっぱり、ものすごくいいもんだなあ、と思った。
今日も終わって行くというささやかな充実感のような、移り変わって行くものにただ身をまかせて流されてゆく物寂しさのようなものが湧いて、そういうやさしい静まりのなか、言っても詮ない最近の孤独を、人でなく葉っぱや土に触りながら、確認していた。
by zuzumiya
| 2010-08-21 18:41
| 日々のいろいろ
|
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