暮らしのまなざし

祖父の家庭菜園

散歩に出るなら、夕方の、日がやわらかく黄味を帯びてきた時間帯がいい。
夫と隣町までぶらぶら歩いて行くと、前も後ろもまっすぐに伸びた狭い路地を見つけた。

「こんなところは珍しいなあ」

夫は買い替えたばかりのデジカメを早速、取り出した。
下町でもそうだが、路地に生きる人々というのは、どうしてこんなにも草花を愛して止まないのだろう。そして、道行く人に見せるというサービス精神が旺盛である。
道に沿って、そこかしこに丁寧に花が植えられているのをただ眺めて歩くだけで、心が洗われてくる気がする。建物を見ても、そんなに豪勢な家はない。この不景気にこれだけの花を買い求めて飾るのだから、お金もかかるだろうに、花より団子に陥らぬ心根にいたく感心した。

線路沿いの道に入った。
道幅は軽自動車が一台通れるくらいの狭さだが、ここもまた気持ちよくまっすぐに伸びている。道の中ほどに薄茶色の猫が座っている。向こうから、自転車を押しながら歩いてくる家族連れがいる。さっきの路地といい、この細道といい、なにかとても懐かしさを誘う風が吹いている。夫はもちろん、カメラを構えている。
ぽつぽつと歩き出すと、この線路端の住民も草花が好きらしいことがわかった。
猫の額ほどの庭や玄関の周り、ほんの小さな三角形の余り地も花壇にして、パンジーやサフィニア、マリーゴールド、カランコエなどがきれいに植えてある。
隠れた線路端の細道なのに、ゴミや空き缶なども落ちていず、雑草もきちんと抜かれて、花がみな生き生きとこちらを向いている。昔乗った都電荒川線から見た線路端もプランターがたくさん出ていて、気持ちが和んだ憶えがある。
ひっきりなしに電車が通る、目にも耳にもうるさい場所だからこそ、大いに草花を植えて癒されたいのだろう。そしてその想いが共通して、この道端の数軒の人々が協力し合ってこの場所を清潔に福々しいものに保っているのだろう。
庭先は花で見事だったが、線路の際の舗装されていないわずかな土の部分は家庭菜園として利用しているらしく、どこの家も支柱をさしてトマトや茄子、胡瓜やいんげんのような身近な野菜を育てていた。

「ねえ見て、これ茄子でしょ、茄子が植わってる」
「茄子?」
「こんな狭い場所なのに、みんなていねいに育てられていて、気持ちがいいねえ」

家庭菜園といえば、死んだ祖父を思い出す。
母方の祖父は昔は大工だったが、体が資本の大工だけではいづれは食べて行けなくなるとしっかり者の祖母が思ったのか、二人はアパートをやっていた。
6畳に4畳半の台所、水洗便所、浴槽なしのシャワーのついた単身用の部屋を6部屋持っていて、アパートはもちろん、大工の祖父が建てた。
私は親の事情で祖父母の養女となり、「大家さんのお孫さん」として、大学を卒業するまでそこで暮らした。アパートの住人は時代ごとにいろんな人がいたが、しっかり者の祖母は不動産屋に頼みこんで、近くの短大と提携していたのだろう。部屋が空けば必ず大学生のお姉さんが紹介されてきた。

祖父は大工根性が抜けきれず、子年生まれの性分もあって、暇さえあればちょろちょろと庭に出ては、トンカチやノコギリを握って何やら作っていた。今思い出してみても、いったいあんなに毎日、何を作っていたのかさっぱりわからない。いくらぼろアパートといっても、そんなに年がら年中、故障したり補強したりもなかろうに。
祖母は気が強く、祖父の大工時代に睡眠時間3時間で働かされたのと、浮気性で女苦労をさせられたせいで、随分と折り合いの悪い夫婦だったから、祖父は家の中より庭に逃げ出していたのかもしれない。

私が小学校三、四年くらいの頃だったろうか。
生活の足しにか、昔とった杵柄か、市のシルバー人材センターから依頼を受けて、大工仕事を再開していた頃があった。
毎朝、カリカリの梅干しを細かく刻んで御飯に混ぜた、もの凄い大きな握り飯をただ一つだけ持って(私はこれをみすぼらしく思えて哀しかった)、祖父はどこかへ出かけて行った。時々、ほんの気まぐれに、夕方、駅に迎えに行くと祖父はたいそう喜んだ。
面白かったのは、祖父がどこかの家のトイレのドアを頼まれて作ったときのこと。
飾り窓を斜めに取り付けてしまい、苦情の電話が家にも来て、祖母と大げんかをしていたことがあった。
「なんだ、たかが便所のドアじゃねえか、うるせえなあ」
というのが祖父の言い分だったが、あの頃は白内障が徐々に進行していたのか、単に老いぼれて手元が狂ったのかはわからないが、斜めに傾いだ飾り窓が目に浮かんで、私は可笑しくてしょうがなかった。

この祖父のことは以前に拙著『夫婦いとしい時間』やブログのエッセイにいくらか書いているが、実に面白い男だった。
祖母は私が常に優秀であることを望んだが、祖父は違った。私が机についていると、
「下手な考え休むに似たり」
と言って、ステテコ姿でにやにや立っているのである。
それで、ムッとすると、
「かずみ、すいか喰うか、すいか」
と誘うのである。
「勉強してるから、あとでいい」
とつっけんどんに言うと、
「うめえぞ、すいか。いいのか、すいか喰わねえのか、え」
ともう一押ししてくる。知らんぷりで鉛筆を動かしていると、ちょっと間があって、そのうち、階段を一足一足みしみし言わせて下りて行く音がする。
この階段をゆっくりと下りていく音がするたびに、なぜだが急に「可哀想な事をした」という気が起きて、やんわりと自己嫌悪になる。
そして集中は途切れて、ついに鉛筆を置いて、私は台所へすいかを食べに行く。

朝は着物の前がはだけ、黄色い目ヤニだらけで起きて来る。食卓に御飯が並ぶまで手持ちぶたさなのか、食卓を指で叩いてリズムをとる。
チンドン屋のように「ズンチャ、ズンチャ、ズンチャカチャッチャ」とやれば、食卓の皿やコップがカチャカチャと鳴って、朝から祖母の怒りを買うのである。
食事の途中でがぶりと入れ歯を外し、湯のみのお茶にくぐらせて洗う。
その入れ歯は歯医者の先生に黙って、自分で使いやすいように「大工らしく」鉄やすりで勝手に削ってしまう。
物を食べれば、必ず片尻あげて、蛙を踏んづけたような汚い音のおならをする。
すかさず私が文句を言えば、
「かずみはやせっぽちだから、肥やしをかけてやった」
と憎まれ口をたたく。
「ごちそうさま」ではなく、「馬ぁ勝った、牛ゃ負けた」と言い、寝に行くときは
「さあ、そろそろ横に立つとするか」である。
トイレに入れば、社会の窓は全開、手も洗わない。
窓辺に立って何を言うかと思ったら、
「ももひきや破れてちぎれてケツが出て、朝の太陽にちんこちぢまる」
と変な歌を詠む。かなりユニークな男だった。

それから、祖父には覗き癖があった。
大工仕事をしている振りをして、梯子をかけて二階の庇に上っては、若いお嬢さん方の部屋の中をベランダ越しにちらちら覗いていた。もっと昔には、どういう理由をつけて部屋に入ったのかわからないが、独身男の部屋にも入っていた。(この時はなぜか幼い私も一緒に入った記憶がある)
その後、祖父が侵入したのが男にばれたらしく、家賃を持って来た際に祖母はえらく文句を言われていた。

大工仕事だけではなく、二階の庇に上がる理由は他にもあった。
それが家庭菜園であった。
祖父は魚屋から発砲スチロールの箱をいくつも貰ってきて、土と苗を入れては二階の庇や物置の屋根に上げた。
そこには茄子や胡瓜、どじょういんげん、さやいんげん、トマトが植わっていた。
うちの庇の方には、巨峰の葡萄棚も作っていた。物置の前には苦くて酸っぱいだけの夏みかんの木があり、アパートの前には甘柿と渋柿とが三本植えられていた。
隣のアメリカ帰りの同級生の家は、椿やら沈丁花やら金木犀やら、品のいい花が咲いていたのに、我が家の庭はみな食べ物づくしで、食い意地が張っているみたいで恥ずかしかった。
特に柿が熟れて共同の通路に落ちても、祖父は掃除などしないので、そこに銀蝿がたかって、隣から苦情もきていた。そういう時でも、
「んなものは、おめえ、自然のことなんだから、しょうがねえ」
「ほっときゃ、土にかえる」
という始末だった。アパートの住人も大家の祖父の素行には困ったものだと呆れていただろうが、祖父が穫れた野菜や果物を気前よくベランダ越しに分けてやったりしていたから、なんとか目をつぶっていたのだろうと思う。

私はその頃からいんげんが好きで、祖母にいんげんのみそ汁やいんげんをいっぱい茹でてもらっては、マヨネーズと醤油をかけて食べていた。茄子はみそ汁に入れていたが、あの頃、祖母は胡瓜までみそ汁に入れていた。胡瓜の出来は悪く、皮が硬く種が大きくて、とても生で食べられなかったので、みそ汁に入れていたのだろう。トマトも皮が硬かったがよく食べた。思えば、祖父の作った野菜はどういうわけか、みな皮が硬かった気がする。祖母から「えんごうじじい(=強情っぱりなじじい)」と呼ばれていた祖父らしい出来といえる。

家庭菜園といえば、とんでもなく臭い肥料のことも思い出す。
祖父が生ゴミのくずから肥料を作るといって、筒状のゴミ箱を庭の隅に置いた。祖母は料理の度に野菜くずや魚の骨や内蔵や卵の殻やらをそこへ入れていた。
ところが祖父は「肥料を作り出す」のではなくて(そんな芸当はできないに決まっていたのだが)、そのままその生ゴミから出た腐った水を単に植木に注ぐのだった。
「油かす」だの手製の「生ゴミ水」だの、とんでもなく臭う肥料をアパートの住人がいるのに、隣近所もあるのに、かまわず土の上に注いでまわるのである。
夏の網戸の頃に、窓辺の机で勉強していると、いきなりぷうんと臭ってくる。
「また、やったな」
と鼻をつまむ。いっさんに階段をかけ下りて、
「おばあちゃん、臭いよ、また始まった」
と祖母に文句を言っても、口の悪い祖母は
「あの、くそじじい!」
と虚空を睨むだけである。それもそうで、私達はあの臭い肥料のおかげで野菜が食べられたのだし、吝嗇だった祖母はその野菜のおかげで八百屋にいかずとも済んでいた。

それにしても、今思い出して可笑しいのは、アパートの住人が誰ひとり文句を言ってこなかったことである。みな夏の盛りに、肥料をベランダの目と鼻の先に撒かれても、我慢していたのだと思うと、可笑しくなってくる。
私が思うに、独身者や学生の集まりであったから、祖父に見つからないように、ベランダの柵から手を伸ばして、時には生った野菜を失敬していたのかもしれない。
それで鼻が曲がるほど肥料が臭くても、みなじっと耐えていたのではないか。
あの肥料の臭いが流れてくるたび、「おえっ」と吐き気がしたが、ざるにあげられ湯気がもうもうと立っている青々としたいんげんを見ると、「旨そう」に変わってしまう。
ただ、トマトや葡萄のように、生のものにかぶりつくとき、どこか鼻のうんと奥の方で微かにあの悪臭がよぎることもあった。

今思い出すと、祖父という男はつくづくクリエイティブな人間だった。
カラーテレビのブラウン管を抜いた大きな箱で、増えすぎたインコの巣を作ってくれたり、夏休みの工作の宿題で回転する牛乳箱を作ってくれたり、木製の大きな組み立てプールも作ってくれた。孫やアパートの住人たちが喜ぶからと、発泡スチロールをありったけ屋根に並べたみすぼらしい家庭菜園を作って、臭い肥料を撒き(本人がいちばん臭かったろう)、野菜作り、果物作りに励んだ。
最後の最後に親族間で諍いがあり、特別養護老人ホームに入れられる前まで、少なくとも鶴間のあのアパートがあった頃は、とにかくちょこまかと休むことなく何かを作っていた。

友達の家からの帰り、踏切を渡れば、線路端の道が次の駅まで続く。
そのまっすぐな道を走って行くと、道路に梯子が突き出ている。
「ああ、じいちゃん、車の邪魔になるのに」
と思って見てると、そのうち、トンカチをぶら下げた祖父が梯子を下りてくる。
「ただいま」
と言って横を通り過ぎる。
縁側のざるには祖父が穫ったいんげんがこんもり置いてある。
祖母は灯りのついた台所でこちらに背を向けて忙しく立ち働いている。
そんなありふれたいつもの風景は、あの頃、何遍もあって、爪の先ほども貴重には思えなかったが、40過ぎてもまだ昨日のことのようにありありと思い出せる。
私は当時、母親とのことでどんなにか悩みを抱えて泣いていても、結局は幸せだったのだと思える。幸せでなかったら、こんな何でもない風景など思い出せやしないのだ。
私のなかの、こうやって下手の横好きながら、文章を飽くことなく書くところは、実は勤勉な祖母の血ではなく、祖父の血なのではないかと思う。


「いいなあ。私、この道すごく気に入ったなあ」
「そう?」
「今日はいい散歩だったよ。写真、楽しみだね。スライドショーやろう」
「そうだな」

線路端の、家庭菜園とも言えないようなほんのわずかな土の上に、今しがた如雨露で水が撒かれたばかりの丸く湿った跡がある。そんなのを見つめて歩いていると、ほのぼのとして、やさしい気持ちになってくる。
とんでもなくユニークな祖父と、厳しく情の濃かった祖母と、ほんとは二人に隠れて泣いてばかりいた泣きべその孫だった。たった三人であの小さな暮らしを必死に守っていたことが、奇蹟のように愛おしく思えた。
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by zuzumiya | 2010-08-21 18:14 | 日々のいろいろ | Trackback | Comments(0)
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