暮らしのまなざし

宮沢賢治 『よだかの星』

a0158124_028187.jpg44歳にして、『よだかの星』で宮沢賢治にやられてしまった。
いつだったか国語で『春と修羅』を習ったような気がするが、学校の授業というのはどうなのだろう、あのときはなぜか宮沢賢治を好きになれなかった。
でも、人生のなかで出会うべきものには遅かれ早かれきちんと出会い、向き合うことになるのだろう。この法則はほんとうに私を深く安心させる。
よくも考えず手放した宝石が巡り巡って私の手元に帰って来たかのような感動がある。
私にとって、賢治は思春期でなく、思秋期の今だったということだ。でも、なんだかそれでいいと思う。その方が賢治をずっとよくわかる、ずっとよく心で噛みしめることができると思っている。
しかし、44歳が日暮れ時に童話の一編を読んで、ほろほろ泣くのであるから、人生は面白い。生きてみなければわからない。

『よだかの星』
なんというか、せつなく悲しい話だった。
どうしようもなく、とことん孤独な話だった。
そして最後に、やはりこれは美しい話だと思った。

賢治の文章のそこここに、これでもか、これでもかというくらい徹底的によだかを孤独へ追いやる描写があって、むおむおと胸が押される。
よだかは醜い器量で、鳥のみんなに嫌われている。本当は「美しいかわせみや、鳥の中の宝石のようなはちすずめの兄さん」として同種の鳥なのに、

「はちすずめは花のみつをたべ、かわせみはお魚をたべ、よだかは羽虫をとってたべるのでした。」
と賢治は容赦なく書く。羽虫か…、と読んでいる私のこころはなおも俯いてしまう。
そして、鷹の言いようも酷い。

「たとえばおれは、青いそらをどこまでもとんでゆく。おまえは、くもってうすぐらい日か、夜でなくちゃ、出てこない。」

なにかもう、器量云々を超えて、すべてに嫌われ、見放された重苦しさが襲ってくる。
まるで、おまえは、間違ってこの世に生まれてきた、と言われたみたいに。
そこに追い打ちをかけるようによだかが飛んでゆく風景描写が書かれる。それは、単に夜になっていく描写なのだけれど、よだかが飛ぶと、不吉なこの世の地獄に見える。
そら恐ろしい夜を好んで飛ぶ鳥なんて、鳥じゃない、不吉そのものだと徹底的に鳥たちに嫌われる要素がここにもある。

「もう雲はねずみ色になり、むこうの山には山やけの火がまっ赤です。」
「よだかがおもいきってとぶときは、そらがまるで二つにきれたようにおもわれます。」
「雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、おそろしいようです。よだかはむねがつかえたようにおもいながら、またそらへのぼりました。」

この「むねがつかえたように」なるよだかの気持ちは手に取るようだ。きっと鷹の言葉を何度も何度も反芻して、この暗い世界を飛んで生きるしかない自分は、疑いようもなく、寸分違わず、まったくその言葉通りの要らぬ存在なのだと思い詰めたにちがいない。

甲虫をよだかは二度飲み込むが、一度目に飲み込んだ時、なぜか背中がぞっとして、二度目にはのどにひっかかってばたばたする。その固い異物感、そして腑へ落ちて行った後の静かな時間。その哀しみ、虚しさがなんだか体感としてよくわかる。そして、ついに大声をあげて泣いてしまう。

「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、まいばんぼくにころされる。そしてそのただ一つのぼくがこんどはたかにころされる。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。ぼくはもう虫をたべないで飢えてしのう。」

醜いと蔑まれ、存在価値のないとなじられる自分自身でさえ、身一つ生かすためには幾匹もの虫をただ殺さねばならない。それなのに、鷹は無理難題を言いつけて面白半分に自分を殺そうとする。このどうしようもない力のからくり、生きるということのゆるぎなさ、救いのなさにつくづく嫌気がさしたのだろう。何ものをも、もうその存在を傷つけたくはない、そのたった一つの生を奪いたくはない、よだかはそう思ったにちがいない。

赤く燃えた山やけ(山火事)を登場させた賢治の感性は素晴らしい。
この赤はよだかの飛ぶ夜の空の不吉さを醸し出しているのと同時に、よだかの生きざるをえないこの世というものの酷さをも表し、よだかの芯にたぎる怒りでもあり、生命力でもあり、弟のかわせみの感じる悪い予感でもある。挿絵の赤が目に刺さる。

賢治の筆の厳しさはさらにこちらをへこませる。
よだかが死を決意して「やけてもいいからつれてってください」と星々に願い出ているのに、星々すら冷たい断り方をするのだ。
特に鷲の星は底意地の悪い人間のようだ。

「星になるには、それそうおうの身分でなくちゃいかん。またよほど金もいるのだ。」

しかし、よだかは諦めず、弱りながらも飛んで行く。諦めずとは悲しいかな、死を諦めず、なのだ。なぜなら、「わたしのようなみにくいからだでもやけるときには小さなひかりを出すでしょう。」とよだかは健気にも信じているから。

このよだかの死ぬために繰り返される努力たるや、すさまじい。
賢治も何十行にも渡ってここをしっかりと書き込んでいる。このよだかの飛翔の努力が行を追ううち、生きるための努力のように錯覚してきて、でもそうだった、死ぬための努力なのだった、とあらためて気がつくとき、胸は震え、よだかの叫び声の「キシキシキシキシキシッ」が鋭い錐のように胸に突き刺さってくる。
これほどの健全さで、生命力漲る強い飛翔の力を持っていて、しかも、醜いからだでも放つことのできる光を信じるような美しい魂を持つよだかが、今どうしても死のうとしていることへの理不尽さ、もはやこの世にはその死を誰も止められないことへの無力感、無情さに、本当に胸がえぐられるのだ。
賢治はよだかの飛翔で生命力を繰り返し書き込んで、こんなにも惜しい尊いひとつの命を生かすのではなく死なせてしまうことで、差別と偏見の恐ろしさを語った。

よだかの、光になるため死んでいく痛ましい努力と一途な想いに対して、どんな言葉がふさわしいかといえば、やはり「美しい」しかないだろう。
醜いと嫌われていたよだかが、きっとひそかにもっとも憧れていただろう言葉、
「美しい」を捧げたい。
死にゆく姿ではなく、死に臨んで最後に見せた生きて飛ぶ真摯な姿がどれほど眩しかったか、美しかったか、よだかに語ってやりたくなる。
地上の誰もが、そして、天上の星々すら誰もよだかを助けなかった。
よだかはひとりで飛んで、ひとりで逝って、ひとりで星になった。
よだかがその後どうなったのか、そして天上によだかの美しい星がきらめいてあることを、結局、地上の鳥たちは永遠に見ることはないという虚しさ。
あのよだかの持つ生命の本来の美しさを、生きてきた日常において、ひとひかりも輝かせることなく、誰もそこを見ようとも知ろうともせず、よだかが死に向かうことでしか、生命のありのままの美しさを発揮できなかったことが、厳しくもあり、しみじみと悲しい。
死ぬことでなく、生きることでこそ、あの凄まじい飛翔をさせたかった、と切に思う。
たとえ、星になって永遠の命として輝くのだ、という理屈があるにしても。

「そしてよだかの星はもえつづけました。いつまでもいつまでももえつづけました。
今でもまだもえています。」

この余韻に、心がしんとする。
人の心がときに暗闇に覆われるとき、
その奥の奥に、よだかの星がひとつ、きらめいてあってほしい。
そのひかりがたとえ、弱々しくも小さくとも、燃え続けてありますように。
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by zuzumiya | 2010-02-25 00:29 | わたしのお気に入り | Trackback | Comments(4)
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Commented by manaduruharuki at 2014-06-28 12:46
納得! 納得! 同感です!
「よだかの星」は宮沢賢治の作品の中で一番好きな作品です。
Commented by zuzumiya at 2014-06-29 16:34
haruki様、こちらまで読んで頂き、ありがとうございます。
Commented by tamaru at 2016-08-19 18:36 x
この感想を読んでから泣きました。
とても好きな作品です。
Commented by zuzumiya at 2016-08-20 01:37
tamaru様、コメントありがとうございます。
ずっと前に書いていた文章で、今、自分でもどれどれと読み返して真面目だったなと思っております(笑)。
読んで下さり、ありがとうございました。

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